大東亜戦争中、最も過酷だったのは、東部ニューギニア戦で戦った将兵であった

 飢えや、病気や、負傷、で苦しんだ戦場は何処も同様であるが、編者が言うのは、東部ニューギニア戦での将兵は同じく食料無く、前踏未開地のジャングル内大山脈や、凍死する山越えやで、数百キロも、1000キロも歩かされたからである。

近衛第2連隊迫撃21大隊曹長の生還者、唐澤 勲氏著 新潟日報事業社刊
『餓鬼道のニューギニア戦記』を転載する。

稿をおこすに当たり
 昭和二十一年一月二十日、私は広島県大竹港の郵便局を、打電の依頼に訪れた。栄養失調とマラリアの三日熱に加え、熱帯疥痒に右足首をやられ、厳冬の中で長袖長袴の南方の被服をまとい、見るかげも無い姿であった。
 一人の局員に新潟の自宅まで、「内地帰還、明後日実家に帰る」の電文を依頼した。しばらく女の局員は私の姿を頭から足先まで見つめ、「兵隊さん無理ですよ。その体で雪国の新潟まで帰れますか?家族の皆さんを安心させておいて、途中で死んだら一層両親を悲しませますよ。電報を打つのは簡単だけれどやめておきなさい」と親切にいってくれた。「多くの帰還兵を見てきたけれど、あなたのような人は初めてです。どこから復員して来たのですか」、との局員の問に、「ニューギニアだ」と答えると、局員はホーと絶句するばかりであった。
 それでも行ける所まで行き、少しでも故郷に近い所で死ぬなら本望じゃないかと思い、東海道本線に乗車した。どうにか東三条駅まで命が有った。早朝なのでバスも無く、十二キロの道を余力を絞って、家まで歩き続け、帰宅した。
 ところで、かつて大変お偉い肩書を持っておられた人々の、ニューギニア戦記が出版されている。拝読させていただいて感じる事は、かつての肩書が、そうさせざるを得なかったのか、われわれ軍隊の底辺でうごめいていた兵隊の実感が、伝わってこない。赤紙の補充兵として私たちの受けたニューギニア戦争と、だいぶ異なっている。これでは、南冥の土となった戦友に生還を許された者の責任は果たせまい。反面、今更心安らいでいる遺族の心を、逆撫するのか、の気もしてためらっていた。平成二年、新潟日報社で終戦四十五年戦場体験記募集に応募したところ、意外にも反響を呼んだ。この記事が発表されるや、遺族の方から、ぜひ真実の戦跡を聞かせてほしいという激励も大変多く受けた。学芸部記者・小林啓之さんにも、貴重な体験であると改めて認識させられ、ニューギニア戦を若い人たちの感覚で見つめ直していただきたいと思った次第である。
 また、恩師・片桐要一氏から、「書ける事はだれにでも書ける、書けない事を書くのが本当に書くことである」と、諭され、勇気づけられた事も、記述に踏み切った重要な要素であった。

 昭和十五年六月、一片の赤紙、臨時召集令状が私の手に届いた。予期しなかった事でもなかったので、たいした驚きもなかった。昭和十三年、世界軍縮会議において、各国とも常備兵員、軍事費の削減を申し合わせていたために、徴兵検査は甲種合格が少ない折であった。私は第一乙種合格で、兵役勤務は免れたものの、非常の際はいつでも召集の義務を課せられたので、早晩の軍役はあるものと常に覚悟はできていた。
 さて赤紙を手に取ってみると、この一枚に人生の明暗がはっきりと分けられたことが分かってきた。前途は暗かった。今まで考えていたこれからの人生の設計も、青春の希望もすべて応召により狂ってしまった。
 東京は赤坂の近衛第三連隊第一MGに入隊し、軍隊生活が始まった。地方の生活から、軍隊生活への転身はつらかった。通常近衛兵は、天皇の護衛と宮城の警備が主任務であったが、中国戦での兵力消耗と、その後の戦線拡大に伴う急速な兵員の必要に迫られ、教育隊にその任務を拡張していった。来る日も来る日も、戦闘訓練に明け暮れていた。その間、宮城守衛も十分に教育された。
 日頃聞いていた事は、近衛兵の人選は厳正なもので、教養もあり、知的水準も全国諸兵にその追従を許さぬ程で、誇り高き兵隊であることだった。しかし入隊してみると、全く裏切られてしまった。理由なき私的制裁により、暗い内務班生活が続いた。六ヵ月の兵営生活で、破廉恥な古年次兵に軍人精神をたたき込まれた。
 内務班では、「やられたらやり返す」、これが軍隊の伝統であり、これが理由なき私的制裁の原因につながっていた。第一期の検閲が終わるまで、ピンタの飛ばぬ日とて無かった。
 紀元二千六百年を祝う、日本帝国の最後となった天皇による大観兵式が、代々木練兵場で、いとも盛大に挙行された。このころから、「貴様たちも、三途の川を渡っての野戦行きが近くなった」と、ささやかれ始めた。「来年の正月は砲弾の飛んで来るところで気の毒なことだ。しかし戦地行きが決定すれば、故郷へ二泊三日ぐらいの休暇が出るから、楽しみにしていることだな……」などなど。そこへ突然連隊長から、野戦行きの命令が出た。行先も知らさず、ただそれだけだった。
 多分南方方面らしいことが支給された被服から分かってきた。古年次がいったごとく、二泊三日ぐらいの帰郷休暇が出ると思っていたが、防諜に名を借りて、赤紙の補充兵は、外泊も、家族との面会も許されなかった。
 真夜中、品川駅から広島の宇品港に向け、だれ一人見送ってくれる人も無く、東海道線に乗車した。外泊が許可されなかったのは、赤紙の補充兵ゆえに脱走を恐れてのことだった。補充兵とて一死もって国に報いる気持ちは、現役兵に勝るとも、おとるとは思っていなかった私は、上官の心理を理解することができなかった。やり場の無い憤まんを何に打ちつけたらよいのか。
 宇品港から行先不明の輸送船に押し込まれ、下船したのが中国の広東省黄浦港であった。貨車に積み変えられて、南支派遣軍岡本部隊に配属された。かくして私は迫撃第二十一大隊の戦砲中隊・佐藤中尉の第三中隊に補充交代要員として入隊したのだった。また一からの教育のやり直しで、迫撃砲の砲手としての訓練に励むかたわら、従原・北上作戦に参加したほか、数度の討伐作戦に従事した。太平洋戦争開始とともに九龍半島より香港島を砲撃、これを占領して、警備隊の一部を残し、広東の中山大学へ引き上げてきた。
 ガダルカナルの攻略に失敗しろうばいした大本営は、急ぎ南海派遣軍とし第十八軍を編成した。その主力を北辺の守りの京城の龍山の第二十師団とし、南進させた。防寒服に身を固め、スキーを履き訓練を重ねていた将兵が、一転赤道を越えた熱帯地への転用即戦力とは、果たして成り得たのであろうか?
 それに先だち、迫撃第二十一大隊は、第五十一師団とともに昭和一七年十一月、南支派遣軍としてラバウルに進出し、第八方面軍隷下第十八軍(安達二十三中将)の軍直砲兵部隊となり、ラバウル郊外・ココボに待機駐留していた。昭和一八年八月大発にて、魔のダンピール海峡を南北によこぎり、フィンシュハーヘンに悲劇の島・東部ニューギニアへの第一歩を記したのであった。
 慟哭の記録を残す前に、いささか記述の動機と筆者の前歴を記し、稿を起こす前書きとします。
 願わくば、南冥の土となった戦友の鎮魂の書とならんことを。
 第二刷版にあたりパプアニューギニア国営航空極東支社長、岩淵宣輝氏のご指導を頂きましたことを、心より厚く御礼申し上げます。

迫撃第二十一大隊について
 迫撃第二十一大隊は、九四式軽迫撃砲を主兵器とし、駄載にて行動、榴弾及び、ガス弾を投射または射撃する特殊部隊で、本来は化兵監に直属する新設部隊である。
 九四式軽迫撃砲は口径九十・一ミリ、弾丸は九十ミリ、弾尾に六個の翼があり、ピンポン球大の柔らかいセルロイド製のボールに収められた発射薬を、翼の間に押しこみ発射する。
 装薬は零包(小銃の雷管に似た発射薬筒のみ装塡)から六包までの七種類。射程は二百メートル「装薬零包」から四千メートル、「装薬六包」で最長距離の射撃をするとき弾丸は、三千八百メートルの高さに達し、滞空時間は約四十秒といわれる。効力半径は榴弾で二十メートル、ガス弾で十メートルとされている。
 迫撃砲は五個の部品からなり、組立てて使用し、分解搬送する。主として馬匹による駄載搬送であるが、ニューギニア戦では全部辟力搬送であった。各部品の重量は、眼鏡八キロ、砲身二十五・五キロ、砲架四十六・五二キロ、床板四十四・六五キロ、脚二十九・三キロとなっている。
 迫撃砲の射撃はいわゆる曲射で、野砲・山砲などの平射と違い、目標の狙い方も間接照準であり、照準点は普通後方の煙滅変位のない物体が選定される。砲陣地はたいてい凹地に選定されている。指揮官ははるか前方の敵陣地が観測できる地点に前進し、そこから分隊長に砲の方向、装薬数、角度を指示し、試射から効力射へ移行する。
 砲手は四人で、一番砲手は二番砲手と協力して砲座を固定し、二番砲手が指示された目標に対して照準を定める。照準完了を分隊長に報告、分隊長の「発射用意」の号令で一番砲手は、四番砲手の装薬の点検の終わった弾薬を三番砲手より受け取り、分隊長の「発射」の号令で発射する。二番砲手は、照準に狂いがないか常に眼鏡で照準点を注意している。分隊長は指揮官と常に連携をとり、射撃を監視し、特に「二重装塡」には十分注意して発射の号令をかける。発射速度は、普通一分間に四十~五十発で、中隊十二門の完全編成では、五分間の一斉射撃をすると、敵陣地に二千五百発~三千発の弾丸を浴びせることができるから、相当の威力である。
 迫撃第二十一大隊の編成は近衛第二連隊で、部隊編成としては特別編成の独立大隊で大隊本部、戦砲三個中隊と、大隊段列が配属され戦時編成ではその数千二百名くらいで、大隊長は古参の少佐であった。
 私たちの部隊は、昭和十二年秋、南支バイヤス湾敵前上陸を敢行、数次の南支地区の討伐作戦に参加し、後に南支派遣軍の隷下に入り、広東郊外西村裳涌に駐留、白雲警備隊に属した。太平洋戦争では九龍半島の主陣地から香港島へ総攻撃し、上陸前夜は各砲三百発の発射で砲身が焼けて小豆色に見えた。まさに香港島は炎の島に見えた。翌朝、敵前上陸に成功して、砲撃戦と市街戦を戦い抜き、約一週間でこれを攻略した部隊である。

一義五歴の兵隊の始まり
 昭和十五年六月、赤紙の臨時召集令状来たる。入隊する部隊は東京の近衛歩兵第三連で、七月九日午前八時に入隊。所属中隊は第一MG中隊で、歩兵砲隊に編入される。三ヵ月の補充兵教育も終了し、第一期の検閲の講評も大変よかった。教育終了後は皇居の守衛勤務などにも上番し、特に紀元二千六百年の記念の大観兵式は盛大に挙行された。
 記念の式典も終了したので、本来の主目的、戦地補充間要員として、昭和十五年十二月十二日、宇品港を出航した。十二月十七日広東省西村裳涌の南支派遣軍迫撃第二十一大隊第三中隊(中隊長・陸軍中尉佐藤三郎)に入隊。入隊後、迫撃砲の一期の教育訓練で、迫撃砲の砲手としての猛訓練をしての猛訓練をして、前期後期の訓練を終了する。
 昭和十六年十二月九日、太平洋戦争が起きるとともに、香港攻略戦に参加。十二月二十五日、香港攻略の入場式を行い、その後は九龍半島の警備、広東省の中山大学に転出した。
 昭和一七年十一月南支派遣軍第五十一師団「基」部隊と船団を組み、海軍徴用船やひこ丸に乗船。海路二十余日、敵潜水艦の攻撃も受けず、上陸地点のニューブリテン島のラバウル港に入港上陸。その後、第八方面軍隷下第十八軍・安達二十三中将の軍直砲兵部隊となった。
 ラバウル港上陸後はしばらく郊外のココボに駐留し待機していたが。だがサンゴ海海戦、ミッドウェー海戦、八月から十一月のソロモン沖の各海戦でわが連合艦隊は主力を失ったため、残る潜水艦と駆逐艦でガダルカナルから兵員の引き揚げに就航していた。
 私たちは待機部隊として、陣地構築、農園作業、物資の陸揚げの使役で明け暮れていた。五メートルくらいの等間隔に植え付けられたヤシの樹上には、黄金色した果実が枝もたわわに実っている。そのヤシの林の中に、丸太造りの宿舎を建て生活していた。赤道直下を思わせる暑い日ざしにもかかわらず、ヤシの木陰で「ラバール小唄」を歌い、異様に光る南十字星の下で、故郷をしのんだ。支給される食料は半定量でも、現地物資が豊富なため不自由はなかった。湾の入口には休火山・花咲山があり、その海底は流黄の沈積で白色に見えた。サンゴ礁の間から、湯煙をあげて温泉が噴き出していた。
 湾に面した広大な平地がラバウル航空基地になっており、小高い丘の上には教会もあり、近くに兵站病院もあり、白衣の天使の姿もかいま見ることもできた。一見、島全体は平穏にはみえたが、待機部隊なのでいつ前線出動命令が出るのか、不安な日が続いていた。流れてくる情報は、すべてが悲報の連続であった。
 昭和十八年の正月は、それでも、迫撃砲廠にしめ縄を飾り、門松をたて、つつましいながらも、酒やおもちも下給され、元旦を祝った。
 制空権も制海権も完全に敵手に渡っていたが、百武陸軍中将の第十七軍軍司令部と草鹿海軍中将の南東方面艦隊司令長官の麾下に第八艦隊司令部があった。
 しかし連合艦隊の壊滅、ガダルカナルの敗退、ポートモレスビーの攻撃失敗、ブナ地区も玉砕し東部ニューギニアにおける防衛の一角がもろくも崩れていたのである。
 ガダルカナルから、仙台第二師団丸山中将を主力とする一万三千名が駆逐艦で救出され、ラバウルに上陸してきた。撤退に成功したと鬼の首でも奪ったような自慢ぶりであった。いやはや、こじきのようなボロボロの軍医に骨と皮ばかりの栄養失調の敗残兵の集団……。中央の作戦用兵では、第二師団をニューギニアに転用する予定であったというが、病兵の集団ではとうてい不可能であった。
 日本の首脳が歯牙にもかけなかった、マッカーサーが東部ニューギニア・ポートモレスビーに、米軍三個師団をもってよみがえり、「空の要塞」といわれる四発重爆撃機の発着を可能にしてきていた。
 ポートモレスビーから、B29の来襲である。東の空から、魔王のごとき風格を備えた姿をわれわれに初見参したのである。湾内の各艦艇から投射される無数の照空灯に浮かぶ巨体が、一機また一機と金属音をあげて飛び去って行く。期を移さず、ラバウル飛行場より、空の万年筆・一式陸上攻撃機が三機五機と飛びたち、迎撃に向かった。しかしワシに向かった小スズメのごとく、大人と子供の相撲みたいなもので、歯牙にもかけられない。この巨大な雄姿だけで日本の将兵は威圧され、今後の作戦に底知れぬ不安と恐怖を与えられたのである。
 現地物資の活用が、軍命として下達された。特に動物性タンパク資源に不足していたので、どこの部隊でも、海中の魚捕りが盛んに行われた。現地人は海の魚類はあまり捕らなかったので、無数の魚が海底を泳いでいるのがよく見えた。偽装網をほどいて釣り糸をつくり、釘を曲げ、餌をつけて、海中にほおり込んだだけで、クロダイの体長二十五センチもある大物が釣れた。また網ならぬ、すのこの竹を組み合わせ、二十名くらいの兵隊で地引き網のようにして沖合より海岸に引いてくるのである。人間を知らない魚は、面白い程多く網に入った。日本近海にもよくみるクロダイ、長いタチウオ、サヨリ、キス、そのほか熱帯の美しく食べるにはおしいような魚が、多く捕れ、食膳を賑わしてくれた。
 南十字星のヤシの葉かげからの眺めは、我々を望郷の念に引き込まずにはおかなかった。海はエメラルド色に波打って平和そのものだけれど、戦況は日に日に悪化していた。待機部隊なので、いつ戦線に引き出されて行くかわからぬ。しばし望郷の念の中で将兵たちは、故郷へ着くか着かぬかわからぬ軍事郵便を書き送っていた。
 こんな折に、広東省南海県裳涌で入隊した第二次の補充兵が、職業軍人の下士官を除き内地に突然帰還して行った。別れの言葉を交わすこともできず、最後の音信を家族に渡してほしいと頼むこともできず、もちろん別れの見送りもできずに、極秘のうちの内地帰還召集解除であった。帰る戦友も、残るわれわれも、胸中の複雑さをかくせなかった。迫撃第二十一大隊の編成の主力は、われわれ近衛三連隊で、内地の基礎訓練を受けた第三次の補充兵となってしまった。
 昭和十六年三月、現地入隊の未教育現役兵と迫撃第一連隊に現役兵(未教育兵)が、群馬県沼田市から入隊してきた。
 豊富にあるといわれた人的資源も、満州事変以来の長期戦によって消耗も激しく、入隊してくる兵隊たちは体力も低下し、ましてや内地における軍事的な基礎訓練も十分に受けないまま戦場に送られてきていた。
 第一線の戦力の低下は余儀なくされていたのである。

死の島ニューギニア
 ミッドウェー海戦と三次にわたるソロモン沖海戦で、連合艦隊は壊滅、惨敗であった。ガダルカナル島の敗退、東部ニューギニアでのポートモレスビー攻略戦でも敗退した。南海支隊の生き残り二千名と海軍陸戦隊安田義達大佐以下の一千名の兵力で、襲いかかる米豪の連合軍をブナ地区において防げるわけはないことは明白な事実であった。
 ガダルカナル島の敗退によって、東部ニューギニアの位置が戦略的にも最重要になってきた。しかし栄養失調の第十七軍を転用することは無理な話である。そこで中央と第八方面軍は、急きょ第十八軍を編成したのである。
 ラバウルにある待機師団・第五十一師団中野英光の一個師団と、第十八軍安達二十三中将が幕僚とともに駆逐艦八隻に護衛され、第五十一師団の輸送船八隻の、それはまさに堂々たる大船団であった。
 我が迫撃大隊は、五十師団より配属を解かれ、ココボにて待機駐留となった。二月二十八日ラバウル港を出航し「第八十一号作戦」に突入。三月二日東部ニューギニア「ラエ」に向かって航行中、敵B17重爆撃機十機が襲いかかってきた。我が護衛の駆逐艦から必死に発射される弾幕をくぐり抜け、敵戦爆連合機は海面に水柱、輸送船の甲板には火柱を立ちのぼらせる。船団の先頭を行く旭盛丸は爆撃され、ニューブリテン島の北方海上、ダンビール海峡の入口付近で沈没した。護衛の駆逐艦は波間に救いを求める将兵を救助して「ラエ」になんとか陸揚げすることが出来た。逃げ場のない船上の恐怖の一日であった。ようやく日が暮れ、残された鈍足の十五隻は、機関全開で夜のダンビール海峡をフォン湾に向かって突き進んだ。船室の将兵は恐怖の一日におびえ、明日の航海の無事を祈ってまんじりともしなかった。
 三日の夜が白々と明けてくると、フォン湾の入口、ニューギニアの連山が見えてきた。ニューブリテン島の山々にくらべて、異様に威圧されるような雰囲気である。しかし、甲板上の将兵は一様に安堵の色をみせていた。
「敵機来襲!」
 その時巨峰連山をとび越え、突然戦爆連合の大編隊約百機余りが襲いかかってきた。「敵機来襲全員配備につけ」と甲板上で将兵は走り廻っている。八隻の駆逐艦は全速で航行しながら防戦するだけであった。
 民間貨物船の輸送船は無防備で鈍足であるため、全くの好餌である。爆発の衝撃で倒れる者、海中に転落し溺死する者、其の数を知らず。魚雷は適確に走り船腹に突き刺さって爆発する。それはまさに悪夢のような情景であった。陸上なら逃れる術もあるが、海上では敵飛行機に攻撃されるままである。甲板はたちまち炎に包まれ、輸送船は真っ二つに折れて海中に没していった。この世の地獄の再現であった。
 船団護衛の我が戦闘機約六十機の必死の健闘もむなしく、駆逐艦「白雪」「朝潮」「荒潮」の三隻と七隻の輸送船団が撃沈され、駆逐艦二隻中破二千数百トンの糧秣、戦略物資とかけがいのない将兵が、水深一千数百メートルのダンビール海峡の海底に消えたのである。
 敵機から逃れた駆逐艦は、海上に泳ぎ浮かぶ二千余命の将兵を救い上げ、ラバウルに逃げ戻った。
 海峡の潮の流れは、日本の瀬戸内海の潮の流れより早いといわれていた。駆逐艦に救助されなかった将兵は、浮遊物にすがり恐怖の海に一昼夜、二昼夜と死の漂流を続け、幸運にも捜索艇に救助される者もいたが、他の者や将兵は力尽きて海底に沈んで水漬く屍となった。
 不幸中の幸いにも、安達二十三軍司令官と五十一師団長中野英光の乗艦した駆逐艦は難をまぬがれ、九死に一生を得た思いであった。しかし最初の出発につまづいてしまった。船団では近寄れない東部ニューギニアの厳しい戦局は、前途多難であった。
 それにしても、前日第一波の敵襲を受けながら、何故大船団を見逃してくれると考えたのか、今もって分からない。第二波は当然予測されるはずだからである。第一波の攻撃にしても、日本軍では考えることのできない高度な暗号傍受と解読技術によって、日本軍の作戦行動がマッカーサーの米軍に筒抜けだったのである。
 中央、そして現地部隊の発信する暗号電報は、米軍の優秀なレーダー網と情報網がすべて捕え、ワシントンに送られ、乱数表の解読により、作戦の先手、先手と奇襲攻撃をかけられることに、何の疑念も持たない軍上層部の迂闊さがあったのではなかろうか。
 ダンビール海峡の悲劇は、米軍機が偶然に遭遇したものではなく、起こるべくして起きたのである。
いわば怠慢な研究不足からきた第八十一号作戦の惨敗は、東部ニューギニア上陸作戦における第五十一師団の壊滅的な打撃、第十八軍の敗退を決定的なものにしたといっても過言ではないだろう。

パプアニューギニア
 第八十一号作戦の惨敗により輸送船のほとんどが海没したため、船団輸送は全く不可能となってしまった。しかし「ラエ地区」に対する増員を中止することはできない。
 そこで考案されたのが、船舶工兵によるいわゆる「大発」でのピストン輸送であった。暗夜を狙い、隠密裏にダンピール海峡を潜行し、兵員を輸送しなければならない。空からは敵機がウの目タカの目、海中には科学兵器の船艇探知機をようした「大発殺し」と異名をとった魚雷艇が待ちかまえていた。
 ラエ地区への増員は急を要した。わが軍は五十一師団主力と第十八軍・軍直部隊の兵員輸送計画の作戦遂行に移った。
 私たちにも、ラバウルでの待機部隊として十カ月住みなれた「ココボ」出発の日が来た。当初のガタルカナルへの補充要員の必要もなくなり、当然東部ニューギニアへの転進は予定されていたので、いよいよ出番到来と私たちは覚悟を決めていた。
 ココボを去るに当たって、掘っ立て小屋の宿舎にも、原住民との別れにも、心残るものがあった。
 迫撃第二十一大隊は、残留一個小隊を残して転進すると下命され、マラリア患者を主とした病兵で一個小隊が編成された。その中には埼玉県出身の原田兵長も熱帯疥痒で残留と決定した。彼とは近衛三連隊から今日まで第三中隊で生死をともにしてきた仲だった。ユーモアに富んだ彼との別れはつらかった。ニューギニアに転進すれば、生きて二度とこの世で会うこともできないだろうと、握り合った手に熱い涙が落ちた。あの時の気持ちは終生忘れることができない。
 ラバウル港から駆逐艦「鹿島」に乗艦。残留一個小隊に決別を告げ、二日間の航海でニューブリテン島の突端ツルブに上陸する。
 ツルブからはその裏側のブッシングまで山道を難航軍の末、三日後に到着した。ふしぎにも敵飛行機には発見されず、全員無事で目的地まで到達した幸運を将兵ともども喜びあった。ブッシング山頂より人呼んで魔のダンピール海峡を見下ろした時には、果たして無事にニューギニアまで行き着けるかどうかと、その不安に肌に粟立つ思いであった。
 翌日夜第三中隊の先遣部隊として、西尾少尉以下三十名(この中に私も含まれていた)が出発した。南十字星も見えず全くの暗夜、船舶工兵隊のいわゆる「大発」(定員四十名乗り、自動車エンジン搭載、時速五~六ノット)に便乗することになった。
 船舶工兵隊の艇長の、「乗れ」の合図で私たちは発動機艇に分乗する。海底墓地、人呼んで三途の川といわれたダンピール海峡、波静かな沿岸部からやがて海峡に突入していった。
船首で砕ける激浪の物凄さに、艇はブルン、ブルンと激動する。大波の頂点から艇が波間に落ちると、スクリュウは空転して悲鳴をあげた。狭い艇内はすし詰め状態で逃げ場もなく全員ズブ濡れである。
 「大発殺し」と異名をとる敵高速魚雷艇が、手ぐすね引いて待っている。そのライトを発見すると艇はエンジンを止めて進行を停止し、木の葉のように漂流にまかせる。
 潮流に押し流されながら、暗夜の海上で目を皿のようにして高速魚雷艇の動向に全神経を集中する。ライトが遠ざかると、またエンジン始動である。
 時には友艇が故障を起こし、エンジン停止のまま激しい潮流に押し流されて、「曳行頼む」の必死の叫びも空しく暗やみの海上を遠のいて行く。我々はそのどさくさまぎれに航行を続けて行く。
 何時間が過ぎただろう。やがて東方の空は、夜明を知らせる薄明の空に変わってきた。時計を見ると、十時間余も乗艦していたことを知る。緊張で身も心も綿のごとく疲労していた。それでも目的地フィンシュハーヘンの港に無事到着した。
 水深一メートル位のところに、放り出されるようにして下船。ヅブヌレのまま海岸にたどりつくことができた。岸から近くの丘の上に登り、ヅブヌレのまま横になって休む。緊張からの開放と、極度の疲労から私たちは深い眠りに落ちてしまった。
 前途多難を思わせる巨峰と秘境を前にしてはいたが、当面恐怖のダンピール海峡を無事乗り越えたことに、私たちは安どしていた。ここが二度と戻ることのできない地獄の一丁目であったとは、だれも気づいていなかったことである。
 夜明と同時に敵グラマンがカン高い金属音をたて襲ってきた。ガンガン機銃攻撃をしてくる。小隊全員速かに退避する。それにしても、ニューギニアに上陸したばかりの早朝、敵機の空襲を受けるとは、いよいよ前途多難と思い知らされた。
 小隊長は部下の兵隊を休ませて、地区司令官第一船舶工兵団長山田少将に到着の報告に行く。
 うしろを見上げると巨峰がおおいかぶさるよう迫っていた。やがて小隊全員三十名は移動を開始した。黄色の岩肌の急坂を登りつめると、崖下に粗末な木造の丸太小屋が見えた。これがフィンシュハーヘンの船舶輸送司令部であり、これがラバウルとニューギニアを結ぶ発動機艇の輸送司令官山田少将の本拠地であった。
 フィンシュハーヘンの裏山からふり返り見ると、ダンピール海峡が眼下にうす黒く、気味悪く展開している。日本軍の海底墓場である。幸運にも昨夜は米国の高速魚雷艇にもつかまらず、機銃砲の乱射も受けず全員上陸できたが、ブッシングで乗船待機中の部隊全員が、果たして無事、ニューギニアに上陸できるだろうか。こみ上げる不安をどうすることもできなかった。ただただ戦友の武運を祈るばかりであった。

不信の芽生え
 「ラエ地区が危急にひんしている。ご苦労だが、直ぐにラエに向かって急行してもらいたい」とのこと。「兵器弾薬はあとから急送するから、宰領の下士官を残して翌朝出発してほしい」とのことである。
 小隊は、金木伍長と兵一名を残して早朝フィンシュハーヘンの裏山から出発した。さわやかな南国の漁村らしい風景が美しく見えてきた。とまたしてもまわりの丘、スレスレに敵機グラマンが、カン高い轟音で、朝のしじまをかく乱して飛来してきた。ラエまで十余日の工程であると、西尾少尉は簡単な手書の地図を見ながら指示を与える。そして私を呼び、
「こんな簡単な地図で目的のラエまで到着できるだろうか?山田少将の指示に不安を感じないではおられない」
と、私に前途の不安をかくし切れないような表情で話された。しかし命令は実行に移されなければならない。私たちは手書の地図を頼りに、朝食後宿営地を出発した。
 最初の部落は「ナシガラット」次は「ディゲド」であったと記憶している。いずれも平和で静かな海岸の寒村で、住民は居なかった。カンナに似た赤い花が部落の入口に咲いているのが、我々には妙にわびしくうつって見えた。
 敵飛行機にも、原住民にも日本兵にも遭わない日が幾日か続いた。だが明日はラエに入る予定の前日、小隊長が手書の地図を見ながら、「おかしい、おかしい」とつぶやいていた。どうやら不正確な地図で、進路を間違ってしまったとのことであった。「山道に迷い込んだらしい。地形がおかしい、ラエへの進行角度が異っているようだ」という。夕暮れも近いので、その夜は原住民部落をみつけて、そこで一泊することにする。
 翌朝は早く起床して、前日の海岸道に戻り、小さな岬の崖縁に座って、朝食の携帯口糧をとろうとして海を見て驚いた。はるか海上に幾十と数え切れない程のいろいろな艦船がひしめいているではないか。ど肝をぬかれて見ていると、午前七時を合図に、猛烈な艦砲射撃と航空機の爆撃を開始したのである。
 砲爆撃の目標地点は、きょうこれから我々が進入しようとしている目的地ラエではないか。不備な手書の地図で、昨日道を間違っていなかったら、今ごろラエに着いているはずであった。西尾小隊は、間違いなく敵上陸地点の真っただ中に居たことになる。肌に粟の生ずる思いとは、まさにこのことであった。
 飛行機の砲爆撃は一時間くらいで止んだが、艦砲射撃は中止しない。そのうちに巡洋艦らしい数隻の船が、さっと両側に分かれると、その間から輸送船が上陸用舟艇らしい三、四十隻が爆音を轟かせつつ上陸を開始した。まるで絵に描いたような見事なものである。
 「昭和十八年九月四日、豪軍一個師団(第九師団)が東部ニューギニア・ラエ地区ブソ河口付近に上陸した」と戦史誌にみえるが、我々はその上陸に遭遇し、目の前にその壮絶な光景を見ていたのである。
 何の危険も感じず、しかも白昼堂々と岬の突端に並んで朝食を食いながら、こうした「大スペクタクル」を観覧した運のよさとは裏腹に、物量の豊富さと制空・制海権を有する連合軍に対し、底知れない恐怖と前途の限りない困苦の予感にさいなまれたのであった。
 上陸は二時間ほどで終わったらしい。しかしラエには飛行場も舟艇基地もあり、海軍の第七特別根拠地隊の主力・中野四十一師団の一部と、第五十一師団の一個大隊、野戦高射砲第五十大隊がいたはずである。十五榴弾砲の四・五門・野砲・高射砲の重火砲もあると聞いていた。ところが一発の応射もなく、何の抵抗もみることができなかった。蟷螂車轍に当たるの気概をみせてほしかった。
 そのうち、ラエに通ずる海岸道には、ラエから撤退してくる日本兵の小部隊がチラホラ見えてきた。こうした状況の中で、このままラエに向かって進行すべきかどうか、小隊長は迷いに迷って思案を続けておられたようであった。ラエから来る将兵に聞いてみても、何の情報も教えてくれず、彼等は全く戦意を喪失していた。敵の斥候がすぐ後から追尾してくるようで浮き足立って急ぎ足で歩み去って行った。
 九時を少しまわったころにわかに爆音が響いて、北の水平線に大編隊が出現した。帝国海軍の戦爆連合約八十機の空襲である。これこそ敵上陸部隊に痛撃を与えにやってきたのだ。「バンザイ」「バンザイ」「いよう頼もしぞ」「徹底的にやっつけてたたきのめしてくれ」と口々に叫んだ、私たちはまた岬の崖縁に座り直して、この海軍航空部隊を応援することにした。
敵上陸部隊は、既に高射砲も上陸したらしく、渚の陣地と艦船から高射砲を打上げているようで、爆煙で上空が真っ暗になるくらい猛烈に煙幕を張っている。いまだ空襲部隊がはるか遠方にいるのに「この辺は砲撃で進入出来ない、帰れ、帰れ」といわんばかりのやり方である。持てる国の安全第一主義、弾薬の効率など全く考えない余裕のある防禦である。
 我が空爆部隊はいよいよ近づき、あと一キロか二キロで敵上陸というところまで接近してきた。いかなる決戦が展開されるのか、我々は息を殺しかたずを呑んで次の瞬間を待ちかまえていた。
 ところがである、我々の期待は全くはずれた。この期待はずれの裏切りに私たちは全く打ちひしがれてしまった。落胆の極に達した。戦争というものはやっぱりこんなものかと底なしの失望に引きずり込まれた。後一~二キロ、二~三分で敵の頭上に突撃!というところで、海軍航空部隊の全機が爆弾を放ったのである。爆弾はまさに雨あられのごとく海中に落ちていったのであった。敵のいない海中にだ!
 捨てられた爆弾は、それでも心あるかの如く炸裂し、轟然たる爆音を発し水しぶきをあげた。同時に空襲部隊はまわれ右、一八〇度転回をして元来た方向に退却を始めた。轟々たる爆音は一層かまびすしく、空しく我々に聞こえた。一体何をしにここまできたのか?国民の地と汗と涙によって作られたこの爆弾。友軍を裏切りそして見殺しにして行った彼等は、日本軍人としての心も、パイロットとしての誇りも失ってしまったのだろうか?
 それでも海軍報道部は、「帝国海軍の戦爆連合の航空部隊は、東部ニューギニア・ラエ地区に上陸した米国一個師団を強襲し、甚大なる損害を与えこれを壊滅せり」と発表するであろうが、その実態はこういうものだった。
 陸軍と海軍では軍首脳間の感情が疎隔しており、縄張り意識が強く、常に水と油で融合体ではなかったとは聞いていたが、東部ニューギニアで米豪軍と死闘を交えているというのに、戦局の縄張り争いでないだろう。ニューギニア戦線の最先端に立つ我々に対するこの上もない裏切りは、勝算無き戦いといわれながらも、「一死もって皇国に報いん」と意を決して死のダンピール海峡を渡り、フィンシュハーヘンに上陸したのに、諸戦においてこの友軍の裏切り、今後の作戦に不吉な予感を感じ、戦意はしなびて行った。
 西尾少尉は、とにかく行けるところまでラエに向かって行くべしと、黒煙の上がる地を目標に行こうと、足早やに退却してくる兵たちにはかまわず、海岸の細道を歩き始めた。
 そのとき、「迫撃第二十一大隊の三中隊第一小隊西尾少尉はいないか。無線命令が来ているぞ」と叫ぶ通信隊の連絡兵に出合った。山田船舶司令からの「第三中隊の第一小隊西尾少尉は、速かにフィンシュハーヘン・ロガエン高地の本隊に復帰合隊せよ」という命令だった。「こんな時にまことにタイムリーで適切なる命令を受領した」と小隊長は、中隊長佐藤三郎中尉の暖かい配慮を感謝しておられた。
 豪第九師団の上陸の翌日の九月五日には、ラエの西方ナザブ平原に、米軍の一個師団が落下傘降下を行った。一個師団の兵員と落下傘が空をおおい、太陽の光をさえぎって夕暮れ時のように薄暗くなった、という。
 総計二個師団の兵員が散開してラエを包囲すれば、日本軍の退路は完全に遮断されてしまう。その結果、決戦となれば全滅必至である。小隊が道路を迷わず、敵の上陸前にラエに到着していたなら、当然ブソ河を渡っていたはずであった。わが第一小隊も、五十一師団約八千名とともに海抜四千五百メートルといわれる連山、オーウェンスタンレー山脈を越えて第十八軍司令官安達中将の軍司令部所在地マダンまで転進せざるを得なかったろう。
 しかし、それでもその作戦により、サラワケットの山越えより苛酷な戦闘とフイニステル山系を登攀しなければならないことになる。地獄の転進をつづけた上、キャリアまでの脱出を強要されようとは考えだにもしなかった。部隊主力に復帰することのみを考えていた。
 ラエに行く時と違って、帰りは敵斥候が飛行機に発見されないように、海岸の水ぎわや断崖絶壁を登攀しての難航軍を続けねばならなかった。加えて、ラエまでの食料は受領して行ったが帰りの食料は支給されなかった。原住民部落の農園を荒らして、タロー芋やヤム芋、ヤシや、パパイアの根を食料として、何とか餓えに耐え、十数日を要して西尾少尉以下三十名は、全くぼろぼろになって疲労困ぱいの末、ロガエン高地の中隊本部にたどりついた。
 魔のダンピール海峡を、なんとか無事に全員フィンシュハーヘンに上陸できた戦友たちと喜びを分かち合った。そして天運我にありと祝福し合ったのである。

フィンシュハーヘン
 二十師団主任参謀小野武雄中佐の予測では、敵師団主力がフィンシュハーヘン周辺に進出できるのは、少くとも十月中旬頃になるだろうと判断されていた。ところが昭和十八年九月二十二日、豪州軍第九師団がアント岬に上陸した。豪軍の師団編成ははっきりしないが数万の兵力。それに優秀な武器と豊富な弾薬。フィンシュハーヘンには、第一船舶団長が指揮する歩兵第二百三十八連隊と若干の重火器部隊があった。
 もちろんロガエン高地の我が迫撃砲第三中隊も、有力な人員と警備を有していた。第十八軍は、猛部隊軍司令官安達二十三中将隷下将兵二千数百名。我々は第八十連隊連隊長三宅大佐三個中隊の指揮下に入り、アント岬から二日行程のロガエン高地から出撃。敵の背後に当たるサッテルベルグ高地を占領した。それから間もなく敵機の空襲が始まり、被害が続出した。だが、これに屈せず陣容を建て直したものの、敵は十数倍の兵員である。
 我々三宅部隊は敢闘した。小部隊による夜間の斬り込みを行い、敵を牽制しつつ第二十師団の主力の到着まで、なんとか陣地を確保した。
 その間、糧秣の補給は皆無で将兵の食料は現地調達に頼る外はなかった。時には二、三日の行程でカナカの農園を荒らさなければならなかった。地図も何も無かったので敵陣地に迷い込み、自動小銃を打ち込まれ戦死者も出た。ダビオカ、かんしょ、バナナは上等の部類で、バナナの茎やパパイアの根まで食べた。食糧を自給しながら戦闘を続けなければならなかった。こうした食料の現地調達しながらの戦闘を、それでも二週間以上も耐え抜いた。
 “第二十師団来たる”我々は声を限りに万歳を叫んだ。待ちに待った主力部隊の到着である。これで連合軍を海中に追い落とすことができるぞと、我々は空き腹もひととき忘れ、戦友と抱き合って喜んだ。しかし部隊が近づくにつれて、その全容が明らかになってきた。第二十師団全軍と思ったのは早トチリで、後にも先にも第七十九連隊だけで、それもボロボロで気息えんえん、とうてい使いものにならない兵隊たちであった。
第二十師団は、京城の龍山に配備された歩兵第七十九連隊、同大邸に主力を置く第八十連隊。連隊長は、前者が松本松次郎大佐で、後者で三宅貞彦大佐。いずれも北辺の防衛に備えて猛訓練を行ない、その警備に任じていた兵団である。南太平洋作戦の風雲急を告げるに及んで、急きょ赤道を越えた猛暑とジャングルのニューギニアに転用されたのが二十師団である。日頃の精進とは全く裏腹な南方作戦に出動とは、夢想だにしなかった作戦を遂行しなければならなかった。これは、その戦史上かつてその類をみないことであろう。
余談になるが、昭和五十三年私はパプアニューギニア慰霊巡拝の旅に赴いた時、かつての歩兵第七十九連隊の戦友やご遺族の方々と鹿児島飛行場からご一緒した。その折、初老ではあったがなかなか元気な方がおられた。同行の人々は、名刺の交換などしてその身分は判明したが、その方は身分を明かしてくれなかった。しかし慰霊巡拝の最後の夜、ウエククのホテルでその方の身分が判明した。
アント岬の連合軍との交戦で、林田部隊の第二線攻撃隊長であった第三大隊長・内田忠顕少佐(陸士第四十三期出身)その人であった。
心密かに旧部下将兵の英霊に、心からなる追悼の祈りを捧げに、慰霊団に参加されたものと思われる。ポートモレスビー飛行場を離陸する帰りの飛行機の中で、「若い兵隊をあんなに多く殺さんでも済んだものを」と、その一言は万感の思いを込めた至誠の極みに思われた。下を向いた老の目に、キラリと光るものを私は見落とさなかった。

話を元に戻す。第二十師団は昭和十八年一月初旬、師団を二船団に分け釜山港を出航しニューギニア島に向かって一路南下し、中部ウエワクに上陸したのである。そして軍令により、ウエククからマダン地区の確保を命ぜられた。
アント岬の敵上陸により、第二十師団主力をフィンシュハーヘンに急派することになった。
第八十連隊は六百キロを難行、苦行、食料不足の空き腹に炎熱で、想像をはるかに越える難行軍の末、道なきを踏破してきたのである。しかし山砲や重機は担げないので、泣く泣くマダンに残し、銃剣だけでロガエン高地・サッテルベルグにかけつけてくれた。
ロガエン高地では幾度か我が迫撃砲も火を噴いた。少ない弾薬を有効に使用すべく発射したけれど、一発発射すれば百も二百もお返しがくるので、歩兵部隊から、迫撃砲射撃を中止してくれと頼まれる始末であった。
第二十師団長片桐茂中将は両軍の戦力を検討し、常識的な正攻法では勝ち目のないことを知り、奇襲戦法で敵を撃破しようと企図した。その戦法は、三個小隊を発動艇に分乗させ、暗夜にまぎれて海上から敵の背後に上陸し、師団主力が陸正面から突撃を敢行しようというものである。しかしこの作戦も、実施上の連絡の粗誤から、期待通りの成果を収めることができなかった。戦誌で見たのであるが、独立工兵第三十連隊が、精米三十梱と味噌二梱を第一線に補給したとあるが、軍直部隊の迫撃砲隊には配給された記録は残っていない。
極限状態の戦闘では、とかく不公平な事が多かった。特に下級の兵隊にいたれば至る程、その格差は大きかった。
弾薬の残りが少ない砲で射撃すれば、お返しの敵の猛射撃に合うからと歩兵部隊より中止を要求されたり、原住民の農園から現地物資を奪い飢をしのぐという状態の中でサテルベルグ高地の死守、ヘルスバハ飛行場、ジベバネン高地の争奪戦、ソング河口の逆上陸と、どの作戦も糧秣、弾薬、兵器の極端な窮乏の中のもがきみたいなものであった。
なかでもヘルスバハ飛行場では食べるに食なき空腹をかかえての夜間滑走路作りであった。滑走路の補修作業では、モッコで土を運び、明け方にやっと修復終了して引き上げると、山の稜線から敵機ノースアメリカンが飛来して、五百キロ爆弾を投下して離着を不能にして飛び去って行く。そしてまた、夜になると穴うめの補修作業と、体力消耗の夜間の作業の繰り返しであった。しかもこんなに苦労して飛行場を確保していても、ついに日の丸をつけた友軍機を一機も見ることができなかった。
飛行場を死守しても、敵制空権下であってみればいたしかたない事であったかも知れないが、あまりにも無策過ぎるように思えてならなかった。
物量の絶対優位な連合軍に対し、四分の一定量の米だけで大部分は現地農園を荒らし回ってかろうじて戦闘を続行している友軍。一発の迫撃砲を射って、守備陣地を敵に知らせるよりも、「雉子も鳴かずば射たれまいに」と迫撃砲は陣地で敵方に砲口を照準して待つだけという淋しい限りの毎日であった。
このような経過をたどりフィンシュハーヘンの作戦は、惨敗のうちに幕を閉じようとしていた。しかし軍司令官や各参謀連は、「敵を○○に捕捉殲滅せり」と美辞麗句を連ねるだけで、結果は惨憺たる敗北である。
全滅にひんする損害を受けて、この上の戦闘続行は不可能との片桐師団長の進言により、安達軍司令官も意を決し、全面撤退の腹を固められたようである。二ヵ月有余の長期の死闘も空しく、心残りのフィンシュハーヘンからシオ、カラサの要衝に後退することになった。
第十八軍軍司令部のほんの一部と第五十一師団主力は、サラワケットを越えた。他はマダン、ハンサ、ウエワクに残留の半身不随の兵員。第二十師団も中井支隊がボガジン渓谷方面で豪軍の強力部隊と激戦中である。第四十一師団はウエワク、ハンサから前線に急行中。後方ラエからフィンシュハーヘンまで直線距離にして約一千二百キロ、道路はなく車輛もなく徒歩行軍と舟艇輸送のみである。
この間、敵高速魚雷艇による妨害。そのうえスコールによる河川の氾濫と洪水で渡河兵の溺死、道路の決壊により交通は寸断された。我が軍は一千二百キロの長距離展開を余儀なくされていた。これに加えて糧秣・弾薬の補給皆無という、致命的なハンディキャップを負い、軍の戦力としては何分の一、あるいは何十分の一にも減殺されていた。どんなに指揮官や兵隊が戦意に溢れていたとしても、この様な条件下ではもはや戦争にならなかったのである。
敵は続々と兵力を増大し、補給を強化し、絶対優勢な航空戦力をもって占領地域を拡張して、我が軍を圧迫した。それでも日本軍は昭和十八年の暮れまでガリ、シオ、キアリ周辺の海岸線を固守し頑張っていた。
我が迫撃砲第三中隊は、フィンシュハーヘンの攻防戦では第二十師団の八十連隊・三宅部隊に軍直部隊として配属された。サッテルベルグ高地周辺、ヘルズバハの飛行場の争奪戦に死力をつくし敵機の征圧下で苛酷な戦闘に従事した。もちろん糧秣は米四分の一定量で、副食や調味料にも事欠く状況であった。
こんな中で我が迫撃砲も幾度か火を吐き、ある時は、敵前五十メートルに肉薄し、九十ミリの榴弾を打ち込んだ。しかし敵七十ミリの迫撃砲に猛烈な反撃を受け、陣地は破壊され、戦死者や負傷兵もかなりの犠牲者もだしたのである。そして前述の通りこの方面の戦では、じりじりと敵連合軍は優位を増し、我が軍は十一月下旬、総退却を命令されたのであった。かくして十八年の暮れ第十八軍の主力二十師団、五十一師団、第十八軍直部隊はシオ、ガリ、キアリの沿岸に集結することになった。
砲陣地から迫撃砲を撤収し、これを分解して辟力搬送により、中隊全員で転進する作業に移った。しかし数多い戦傷患者、マラリア、栄養失調症の病兵をいかにしてキアリの兵站病院まで連れて行くかに、一番頭を悩まされた。独歩患者はまだしも良かったが、重症患者の担架による担送は、部隊の強兵に及ぼす負担は大きかった。
患者にはわずかに重湯ていどの米の飯しか、給することができなかった。強兵でも長期間のフィンシュ作戦で、四分の一定量しか糧秣の支給はなかった。ましてや惨敗に終わりシオ、キアリの線までの転進に、なんで糧食の支給があろうか、望むことすら無理な話である。またしても、撤退路にあたる原住民の廃農園を荒らさなければならなかった。
海岸道は、敵の高速魚雷艇がウの目タカの目で日本兵を見張り、少しでも不審と思えば機関砲の乱射である。上空からは双発双同のロッキードが、低空飛行で機銃掃射をして行くので、海岸道を避けて、ジャングルや山道を進まなければならない。迫撃砲の辟力搬送に加えて重症患者担送で、転進速度は遅くなるばかりであり、ついには梯団の最後尾になって追尾して行く状況となった。先に通過して行く部隊が、廃農園を荒らして行ったあとなので、残っているのはかんしょうの葉か、かぼちゃの葉、パパイアの根、小指くらいのタビオカ、エゴくて穫り捨てていったタロー芋ぐらいのものだった。それを何度も何度も水煮にしてアク抜きをし、口に流し込むようにして空腹を満たした。それこそ、口に入れるものがあれば、なんでも食べた。調味料が全く無いので、食事は味気ないことこの上無しである。
そうした事情とは裏腹に、体は動物性蛋白を要求してくる。山やジャングルの中では、蛇やカエルも見当たらなかった。それでも雨の降ったあとに、蛇を発見することがある。目の色を変えて奪い合い、これを捕らえた兵隊は、それこそ金鵄勲章をもらったか、鬼の首でも取ったような喜びようであった。早速火を燃やし火の中に入れると、蛇は保身の習性からか丸く輪を作って焼けて行く。これを携行糧秣として飯盒に入れ、背負子に付けて歩く度に飯盒の中で「カラ、カラ」と音がするのも、蛇を捕りそこねた兵隊には心淋しく聞こえた。蛇やカエルにありついた兵隊は、元気をとりもどしたように足どりも軽い。食事の時に、食べるのが惜しいかのようになめている様子は、小児みたいでいっそあわれな気がした。
調味料の全く無い時、偉大な発見をした。原住民の部落には、内地でよく栽培されている現地人はロンボーと呼んだナンバンがある。トウガラシは多年生の植物だが、日本では冬を越せず春種をまき夏これを収穫、秋には枯れてしまう。ところが南国では二メートルくらいに伸長し、赤い実を多く着果している。
現地人部落ではその数は多くはなかったが、時折り発見すると私たちは我れ先にとこれを採取した。これが唯一の調味料であり、多量に食べると口の中が火傷を負ったようにヒリヒリして物の味も分からないくらいになった。多量の水を飲んでなんとかごまかした。笑うに笑えない話であっても、笑う気力もないのか無表情の将兵の姿は、またみじめなものであった。
転進は、遅々として進まなかった。担送の銃患者が一人昇天すると、今度は独歩患者から二人の担送者が出るという具合で、最悪の状態になり、まさにアリ地獄の様相を呈してきた。一人の犠牲者も出すことなくキアリ兵站病院迄つれて行かねばならないと中隊全員で励げまし合って転進を続けていた。

シラミと塩と兵隊
 ザテルベルグ高地の陣地から総退却を開始してから十数日が過ぎたある日、小高い山頂で小休止をしている時に、中隊長佐藤大尉が当番兵の笠原兵長と何やら笑いながら千人針の腹巻を調べていた。当番兵の笠原とは同郷で、東京の連隊から今日まで、苦楽をともにして戦ってきた戦友である。
「おい笠原、何をしているのか」と私がたずねると、中隊長が、「コレダヨ、コレダヨ」といって千人針の腹巻を見せながら、ポリポリと腹の辺を気持ち良さそうに掻いている。よく見ると腹巻にシラミが寄生しているではないか。考えてみればザッテルベルグ高地の陣地での戦闘中から、水浴も体をふくことも無かった。中隊長でさえ着替える衣服もなく、全身垢に汚れているからシラミの寄生も巣窟となろうとも不思議なことではない。
 銀色に光る成虫。その成虫の中央部に黒い点が見える。それが人体から吸った血である。指でつぶすと、真紅の血が出て指先が赤く染まる程に大量の血液を吸い取るのである。栄養不良の上になけなしの血液をシラミに横取りされたのでは、たまったものではない。
 「君にもきっと発生しているよ、よく見てごらん」と笑いながら佐藤大尉は、なおもポリポリ腹を掻きながらいわれた。そういえば数日前から腹の辺がムズ掻く、掻き出すと気持ち良くてなかなか止められない。ジンマシンにでもなったのかと思っていた。一週間くらい前にトカゲを焼いて食べたので、その中毒かぐらいに思い、しきりに掻いていた。
 すわこそと腹巻を取り出してみると、いたいた、気持ちの悪くなる程吸血した私の血を腹一杯にため込んだシラミがいるではないか。全身垢まみれの身体、汗臭い衣服、彼らの棲息には最高の条件であり、天国である。こやつに栄養不足の自分の活動源を横取りされたのでは、今後の転進に重大な支障をもたらすと、殲滅作戦にとりかかる。
 飯盒に、湯を沸かし、煮沸消毒をすることにした。腹巻、褌、軍衣と夜通しかかって明方まで殲滅作戦を展開して完了した。相変らずシラミに血を吸われたあとが掻ゆかったけど、その誘惑には負けず掻くのは必至でがまんした。作戦の成果やいかにとシラミ軍の様子をみたけれど、その後反撃の様子も無く、シラミ戦は当方の勝利のうちに終わった。その後銀色に光る卵も腹巻に見ることはなかった。
 かつて東京の連隊にあった時に、「南京虫駆除出張演習」が千葉県習志野演習場と静岡県富士御殿場であった。宿舎の寝台のすき間に、南京虫が無数に発生寄生しているので、それを駆除するために室の出入り口に目張りをして室内をクロールピクリンで消毒する。そうしておいて、一週間位の予定で出張演習に出るのである。帰って来ると完全に消毒されて、南京虫は死滅している。そんな内地のありし日のことを追想していた。
 こんなことと前後して、私たちには塩分の欠乏症が見え始めてきた。塩分の摂取が無くなって幾日過ぎたか。サッテルベルグ高地の陣地に居る頃から調味料の粉末味噌、粉末醬油が切れていたから、一ヵ月も塩分は全然摂取していない。重い迫撃砲の辟力搬送、重症患者の担送、炎天下の現地物資の調達。発汗を伴う連日に、当然のことながらその症状が出るのを防ぐことが出来ない。
 現地の物資の泥棒給与のタビオカ芋やタロー芋、かぼちゃの葉やパパイヤの根だけの食料だけでは、空腹はしのげても、塩分が無ければ人として生存は難しい。パプア族は海岸から遠いので、塩は彼等の貴重な食品だった。山地住民のパプア族は海岸住民のカナカ族と塩の物々交換をやって塩を得ていた。またある種の草を燃やし、残った灰を水で濾して、その灰水を煮つめるとその水に幾分かの塩分が含まれているとボーイから聞いたことがある。自然で生存できる少量の塩分で彼等の身体の栄養素は十分なのであろう。我々日本人の食生活の基調は塩分であり、塩分なくしては健康を保てない身体につくり上げられている。
 塩分欠乏症。だれがこんな状態を予測し得たであろうか。出る汗は少しも塩気がない。小便はショッパイとの先入観から、小便をなめてみても温水のようで少しもショッパクない。ぐっしょりぬれた軍衣も、乾いてしまえば水で洗濯したように汗臭さもない。
 血の気の多い若い兵隊たちは、ラバウルにいた頃は内地の女房や彼女の話で花を咲せたものであるが、今では女の話など出来る状態ではなかった。最初の頃はそれでも酒や煙草、甘味品の話など出ることもあったが、今では露営の夢枕に出るものは、塩をなめたとか、醬油を飲んだみたいなことばかりで、目が覚めて飢餓の世界におかれた自分の立場に、限りない空しさを覚え頬をぬらすのであった。
 少しの高いものにも躓くようになってきた。足が上がらなくなってきたのである。自分では上げたつもりなのに、実際には上がっていないのである。重い迫撃砲の重量荷負に、手で軍衣袴を片足づつ両手で持ち上げ、これを交互に繰り返し前進した。背負子を背負ったまま転び、亀の子がひっくり返されたようで、手足をもがいても起き上がれない。ようやく戦友の手を借りて起き上がる有り様だった。部隊を追撃してきた、敵の尖兵斥候に発見されたこともあった。こんな状態の兵隊を見て「ハリーアップゴーゴー」を笑いながら元来た道を引き返して行ったという、馬鹿みたいなことさえあった。
 兵站基地までいつ着けるのだろうか。サッテルベルグ高地から兵站基地まで、三十キロと聞かされていたけれど、これは海岸直線距離であって、敵襲を避けての山道の行軍である。急坂もあり河川もある。増水していれば渡渉不可能で迂回せねばならず、軍参謀の計算通りにはゆかなかったのが実情である。
 山道を抜け出て海岸に出たなら、海水でもよい、存分に飲んでみたい。食料が無くとも草根、木皮で一刻の餓えはしのぐことができるが、これ以上無塩状態が続けば、全員食塩欠乏症で二度とこの世に戻れない所へ行かねばならない。戦意も体力の低下とともに減退していった。転進の目的地「シオ」この地名を聞いただけで、糧秣・調味料が思い出されてならない。敵弾にたおれなくとも、塩にたおされるのではないかと、死の幻影におびえるのであった。
 突然だれかの叫び声が聞こえた。「山道から海が見えるぞー、ヤシ林も見えるぞー」狂気の如く叫んでいる。やぶをかき分けると、低下した視力でも、目的地シオであることが確認できた。「兵站基地だぞ、軍司令部の戦闘司令所があるぞ、十分の糧秣も支給される」中隊は喜びにわいた。兵站病院のあるキアリも目睫の間だ。独歩患者をいたわり、重症患者を担送して、よくここまでこれたと喜びに手を取り合って泣いた。
 兵站基地を眼前にして心ははやるが、足が付いていけなかった。二、三キロ手前で露営して、明日「シオ」に入ることにして日の出を待つ。わびしい最後の夕食も明日は糧食の心配はないだろうからと、現地物資の携行していたものを全部食べて、明日に備えて十分な休養をとる様下令された。西の空が茜色に染まり、南十字星が一きわ美しく見えた夜だった。
 私はなかなか眠れなかった。海岸に出たら真っ先に海水を飲んでみよう。糧秣廠に糧秣受領に行ったら、何が支給されるだろうか。兵隊の話では、内地からの多量の物資が輸送されてきており、これが集積されているという話だがデマか真実か。まことしやかにそんなうわさも流れていた。何ヵ月振りかの白米の飯、副食の缶詰も味噌も醬油も十分受領できるだろうか。次から次へと明日の事を考えて、暑い夜とはいえなかなか眠りに就くことができなかった。
 幾時間かのまどろみの中で、塩気の強い故郷の赤味噌の味噌汁を口元に運んだとき、夢の世界から現実の世界に引きもどされた。
 南方の夜明は早い。カン高いグラマンが、カシマシイ音を遠くの空に残して飛び去って行く。健兵にもちろんの事、病兵には神経をさかなでするような爆音だろう。ロッキードである。双銅のこの飛行機が、これから我々が行く「シオ」上空を飛び回っているのも、なにやら不吉な予感がしたが、ままよと振り捨てるようにして行動を開始した。
 はやる気持ちとは裏腹に、交互に手で足を持ち上げての行軍である。意志に体がついて行けず、正午過ぎようやく海岸道に出ることができた。見渡すかぎり青い海、この海の続きに故郷があるのだ。夢にも忘れることのできない海、砂浜には美しいヤシ林が等間隔に植えてある。私たちはそんな風景もよそに海に飛び込んだ。海水を手にすくい舌先で嘗めてみる。長い間口にしなかった塩の味。海面に顔をつけ、ぐいぐい一気に胃袋に流し込んで行く。塩分欠乏症が、この海水のガブ飲みで十分補えたのだ。体が求めるまでの海水を胃袋につめ込んだら、足腰もしっかりとして急に全身が軽くなった。そして生きている現実の嬉しさを全身で受け止めた。
 三々五々、兵隊たちは海中に首を突込んで、海水を存分に飲み、塩分欠乏症から苦い海水によって救われたのである。患者には水筒で運び飲ませている戦友もいた。さて欲望は達せられたものの、衰弱し切った体に多量の海水の飲用によって、体調のバランスを崩しはしまいか。下痢、腹痛などを起こすのではないかと心配したけれどこれは杞憂に終わってほっとした。
 シオに到着。早速糧秣廠に糧秣の受領に行ってみて驚いた。多量の糧秣が集積してあると風聞していたのだが、すでに先着部隊が受領して行ったあとだという。我々は梯団の最後尾、しかも二十師団の糧廠秣だったので、よそ者の軍直部隊に支給するのは感情的なものもあったから定量の半分にも満たなかった。それでも一人当たり精米二升、缶詰、乾パンに調味料として粉味噌、粉醬油、ガリガリの岩塩とひと通りの支給を受けることができた。量の多少など、不平をいっていられる場合ではなかった。糧秣廠に下士官がいうには、「君たちは運のよい方だ、今日限り師団糧秣廠は閉鎖し「ガリ」に移動する」とのことであった。
 またしても一日違いで、幸運にも糧秣を受領できたのであった。その晩は幾日ぶりかで飯盒の蓋が押し上がる程白飯を炊き、粉味噌に鯖の缶詰で夢の様な豪華な夕食を食べることができた。
 しかし転進最後の目的地に体を休める時間も与えず、非情な命令「ガリまで急行せよ」であった。ただし患者はキアリの兵站病院に入院させ、後日舟艇にて「ウェワク」へ更迭するので、手続きをして入院させるべし、との命令も付け加えてあった。時は十二月下旬であった。
 担送患者と、独歩患者でも重症患者は、キアリの兵站病院にどうやら送り込み、入院させることができた。「永らく大変お世話になりました。ご恩は終生忘れません」と骨と皮ばかりの病兵に見送られる健兵。思えば広東・香港・ラバウル・魔のダンピール海峡を共に越えて、今日までで苦労を分かち合った戦友である。ニューギニアの戦況からして、一〇〇%再会は不可能なことであろう。ああ非情、ああ無情、握る手に力の弱さを感じ、病兵があまりにも痛ましかった。さりとて私たちも、今日の命は有っても明日の命の保障も無い身であった。
 同年兵で東京都出身の柴田正直兵長とも内地後迭のためキアリの兵站病院で別れたのも思い出の一つである。悲しい別れであった。
 後日側聞した話であるが、病兵たちはキアリの兵站病院から潜水艦によりマダンに後迭される予定になっていたが、敵艦船に発見され中止となり、ガリの舟艇隊から再度の潜水艦輸送に変更されたそうである。しかし多くの患者や病院関係者が、舟艇で深夜その沖合で待機していたが、潜水艦は遂に現れなかった。見放された患者たちは、全員もとの病院に帰らざるを得なかった。
 翌朝キアリは、敵巡洋艦の艦砲射撃を受けてしまった。艦砲射撃は数時間続いた。その艦砲射撃の直撃を受けた野戦病院は、不幸にも全滅の憂き目をみたとのことであった。戦友の冥福を心から祈る。
 寸時の休養も許されず、夜半潮騒の音を聞きながら「ガリ」を目指して、迫撃砲の辟力搬送で出発した。転進の最後尾梯団としての悲運をまたしてもいやという程知らされた。眼下の沖合いには、敵の大型艦船が眼まぐるしく行き交う姿が見える。恐らく兵器弾薬医薬品、糧秣の補充輸送であろう。
 キアリとガリの中間点、シンゴルカイあたりで敵高速魚雷艇の一斉射撃を受けた。予期していたことはあるが、これ程ものすごい攻撃を受けようとは思ってもいなかった。タコツボ壕を掘り、壕の壁面にへばりついて、身動きもせず体を小さくしていた。間断なく飛んでくる砲弾、銃弾、その炸裂音は耳をつんざくようである。
 一回の銃砲劇は、正確に三十分位で終わり、そしてそのくり返し、その反転攻撃は敵ながらあっぱれなものである。海岸のジャングルは一変して丸坊主になり、砂に埋ったタコツボから、兵たちは砂をかむった真っ黒な顔ではい出して来た。幸にして一名の被弾者も負傷者もなかったのは、不幸中の幸であった。
 ラエ、サッテルベルグ高地から休むことなく転進また転進。シオでも私たちは休養がとれず、兵隊の体力は極度に低下していった。また死のサラワケット越えをした五十一師団の主力八千六百名は、そのうち山越えに成功して北岸のキアリ地区に着いたのが六千二百名であった。残りの二千四百名は深山に怨みを残して南冥の土となった。生きて山越えをした将兵も、疲労困ぱいの極みに達した幽鬼の姿であった。
 こんな将兵を安達軍司令官はシオ、ガリ、キアリの地に分駐させ、その地区の警備の任に当たらしたのである。ラエ、サッテルベルグ高地から連続転進の第二十師団、サラワケット越えの五十一師団、どうみても戦力らしい戦力は残されていない。負犬ばかりで、後足に尾をはさんで逃げ回っている犬みたいな軍団では、物量に恵まれ、体力気力充実した連合軍に歯が立たないのは理の当然である。その犠牲を強いられた下級将校や兵隊こそ実に哀れなものであった。

グンビ岬に敵上陸
 昭和十八年十二月下旬、安達軍司令官は第十八軍の主力第二十師団、第五十一師団の全将兵をシオ、ガリ、キアリの沿岸に集結させた。
 転進に次ぐ転進駐留で、体力の回復をはかるいとまもない将兵は、栄養不足に重なる疲労、体力の低下と並行してマラリア患者も続発してきた。二十師団、五十一師団の傷病兵も目につくようになってきた。
 時には異様な臭気がブッシュに漂よっているのに出合う。マラリア熱帯熱、アメーバー赤痢あるいは負傷で、歩けぬ重傷者は死を宣告されたも同様であり、歩行の止まった所が墓場であった。酷暑のニューギニアでは、死後三日もすれば、頬の肉が腐り骨が出てくる。腸は膨張して小指大のウジ虫がうごめいているのがよく見える。棒でつつくと、ブスリと音がしてガスが吹き出し、異様な悪臭である。
 貴重な生命を路傍に捨てなければならない無念さ、祖国日本の勝利と繁栄を信じた彼らが、妻子に思いを残し、内地からの糧秣に見離され、栄養失調で倒れるとは考えてもみなかったろう。それは飢えとの戦いに敗れた姿であった。道行く将兵も、この頃になると自分の身をかばうのが精いっぱいであった。戦友にまで力を貸してやることは出来なかったろう。
 昭和一九年一月二日早朝、米国戦闘団アイケルバーガー中将率いる米第三十二師団七千二百名が、フェンシュハーヘンとマダンの中間点グンビ岬に上陸してきたのである。自動車三百五十台、食糧弾薬一千八百余トンの物資の陸揚げに成功した。
 上陸に先がけての連合軍は巡洋艦をもって近海から艦砲射撃を加えてきた。轟音を上げる発射音の連続、着弾の炸裂音がこだまして耳をつんざく。凄惨な砲撃は約二時間余で終わった。
 かつて私たちがラエ地区ブソ河の豪軍一個師団の上陸作戦を目にしていたので、そのやり方は十分理解できた。それにしても無人のグンビ岬を襲えば、狼狽する第十八軍の抵抗はないものとの想定で計画されたものであり、攻撃は常に相手国の国民的祝日に狙いを定める。米三十二師団長アイケルバーガー中将の正月攻撃は、これを裏付けるブナ地区の攻撃も一月一日であった。
 グンビ岬の敵上陸により、総勢力一万三千余名の第十八軍は、東西からの米・豪連合軍に挟撃される形となりまさに風前の灯となった。
 ラバウルの今村方面軍司令官は、潜水艦三隻で主力兵団への食糧輸送を行ったが、二隻は敵機の爆撃にやられ沈没し、一隻のみが接岸して約十トンの米を陸揚げした。さっそく一万三千の将兵に最後の米として、一人当たり約八百グラムと僅少な粉末味噌が支給された。
 我々はフィンシュハーヘンからの退却の時、塩分には非常に苦労した。ガリでは可能な限り塩の確保につとめた。海水を飯盒で煮つめて、塩作りに専念した。夜間、敵の魚雷艇に発見されないように海水を煮つめての製塩作業は、まさに命がけであった。それでも飯盒の底に少量の塩が、努力しだいではかなりの量を蓄積することが出来た。これを命の綱として、昭和一九年一月下旬、行先五百キロのマダンを目ざして連発する第十八軍の将兵の中で迫撃砲部隊も追尾して行った。
 キアリからマダンにいたる道程は、敵軍上陸地点のグンビ岬の近くを通らなければならない。危険ではあるが、そのなかでも比較的危険度の少ない道は、海岸から四、五キロ隔てて連なるフィニステル山脈(四、一一五メートル)の稜線を縦走して、西に脱出する方法だ。敵の死角をゆくには、この進路において外にないが、しかし行軍にはきわめて難渋が予想された。
残り三千余名の宇都宮第五十一師団であった。その中野兵団を第一梯団として、片桐中将の第二十師団を第二梯団としてキアリを進発することとなった。この時、「マダンまで来い」といって、軍司令官安達中将は潜水艦で高級参謀をしたがえ、海路脱出したのである。残された我々迫撃砲部隊は、第二十師団を追尾して五百キロの転進行を開始したのである。
 最初の二、三日は比較的ゆるやかな丘陵の屋根を登って行くと、そこにカナカの部落があった。この辺は四、五百メートルの標高らしい。二、三十戸のカナカのハウスが建ち並んでいる大きな部落である。このカナカのハウスには、先に転進して行った五十一師団の将兵が早くも落伍者として、兵站病院の患者とともに駐留していた。部隊に追尾して行けないとなればやむを得ぬことだろう。
 ガリからマダンまでの五百キロの道のりは、ミンデリまで三百キロが山越えの稜線コース。ドマンナ、ノコボ、ヨガヨガ、シンダマ、アッサなど十五、六のカナカプレスを経由する。高峯の登山道に入ると、道は幅五十センチから七十センチの原住民道であった。
 フィニステル山系から北のグンビ岬が遠く海に向かって張り出しているのが眺望できた。岬の海上には敵の艦船が多数見える。海岸では陸揚げした多数の自動車が走り回っていることだろう。
 師団単位の将兵が原住民道を通過すればどうなるか。道は崩れ、ぬかるみに、果ては泥川となる。うっかりして足を踏みはずしたら最後、靴を取られ、足を抜くにも四苦八苦である。ジャングルの樹相が変わってきた。どの樹木も苔類の着生しているのがみえる。ノコボには五、六戸のカナカハウスが点在していた。
 迫撃砲の辟力搬送も、日を重ねるにしたがって肩にくい込む重さが苦痛になってきた。師団最後尾を追尾して、農園の物資をあさりながらの転進は、次第に梯団から遅れるようになってきた。
 ラバウルから輸送されてきた米は、すでに食いつくしてしまっていた。部隊から離脱した遅留兵の小集団も眼につくようになってきた。
 そんなある日私は、原住民の廃農園に掘っ立て小屋を建て、五、六人の目付の怪しく光った異様な風体をした病兵を見た。なにやら飯盒に入れて炊さんの仕度をしていた。彼等がどんな食料を食べるのかと、そっと中をのぞいて見た。そこにくり広げられている異様な光景に私は身震した。メスで死体の太股の肉を切り取って、飯盒に入れているではないか。白い骨が見えている。外の物音に気付いたのか、病兵の手が小銃にかかったような気がした。同僚の肉を食ったのを見つかった病兵が、発作的に何をするか知れたものではない。私は廃農園を転げる様にして走って出た。
 飢餓の世界から脱出し、生命の持続を図りたい。生きんがための本能に、理性も失い、地獄の使者に引き込まれ、悪魔の化身になった浮浪の群れであった。ニューブリテン島のラバウルで待機部隊として駐留していた時、ガダルカナル島から撤退して来たアジの干物みたいな兵隊が、白人を白豚といい黒人を黒豚と呼んで、飢餓に負け悪環境下で人肉を食ったといううわさを耳にしたことがあった。
 現実の飢えと、迫りくる死への恐怖と戦況悪化による自暴自棄。生きて故国に帰りたいの一心。父母、兄弟、妻子、友人知人、最愛の恋人に会いたい。その思いが、人としての理性を狂わしてしまったのだ。その罪はだれにあるのか。その責任はだれにあるのか。彼らも決して好んで畜生道に落ちて行ったのではないと私は信じ、彼らから遠ざかった。
 元気な兵隊といっても、それはただ動けるというに過ぎなかった。今日ただ今を必死の思いで生きているに過ぎなかった。迫撃砲第三中隊は、たった一門の迫撃砲を虎の子の重火器として保持していた。そしてその分隊長として、中隊専任下士官である私が任命されていた。
 栄養失調症の兵隊に、百六十キロ余の迫撃砲を辟力搬送させることは、軍令とはいえあまりにも酷な話である。ましてや弾薬の補充もなく、またその補充のあてすらないのである。辟力搬送で全砲手を消耗し、だれが射撃するのか。全く馬鹿ばかしい話であった。
 私は砲の責任者として、一番重い砲架論四六・五キロを搬送していた。幸い私は農村の出身で体力的には大変恵まれている。加えて東京の連隊で鍛えに鍛え上げられていた。戦場体験も長く、人一倍戦場感も機敏だった。ピシン語もマスターできたので、現地民の宣撫にも力を入れており、カナカとは随分交流できたので、何かと便利な面が多かった。同年兵のK兵長に床板四四・六七キロ、T大学出のM兵長も砲身二五・五キロ、S兵長に脚二九・三キロとそれぞれ交替要員をつけて分担させた。中隊最古参の同年兵とはいえ、私の命令を理解してくれてありがたかった。さすが近歩三で教育を受けた兵隊だけに、よく酷使に耐えてくれた。

道標は将兵の屍
 ニューギニアは全島が巨峰と、人跡未踏の秘境である。支給された米もすでに食いつくした今、カナカ(注)の廃農園をあさるしかなかった。かんしょの葉や茎、それも先陣の兵団が通過した跡にはパパイアの根かあくの強いタロー芋かバナナの茎、ジャングルに入って採るジャングル草などと栄養価〇に等しいものしか残っていなかった。それでも食べなければ腹の虫が承知しなかった。 (注)カナカという言葉は、現在死語になっている。今のパプアのこと。
 稜線は断崖絶壁が多く、カナカ住民の山道は、登はん角度をゆるめるために迂回するという方法を知らないかのようで、細い上に一直線だ。巨峰のりん立した峻嶮と、樹海の峰から峰への縦走は、ミンデリーまで三百キロと出発の際聞かされたが、目前にそびえる峰は石を投げれば届くほどの距離でも、一担は千じんの谷底に降り、そこからその峰に登らなければならない。恐らく五、六百キロの道程になるのではないか。
 敗退につぐ敗走、栄養失調に加えての飢えである。マラリアで熱が出ても、下痢をしても医薬とてない。一番気の毒だったのは、痔疾病症の持病の人たちだったのではないか。股間を鮮血に染めて、四つんばいになって地面をはいながら目的地向かって前進している姿は、実に悲惨の極みであった。追い抜いて行く人々に、助けを求めることもできない。助けを求めても、だれも力になれなかった。落伍すれば、ただ暗い孤独の中で、じっと死を待つだけなのだ。
 細い山道の両側に、道標の如くに死体がたおれている。転進道のあたかも道しるべの如くに。ぬかるみに足を取られそのまま息絶えたのか、兵隊の脚だけが空に突き出していたり、ほとんど白蠟化した手から、透明な皮膚が手術用のビニールの手袋を脱ぎかけたようにぶらさがっている、異様な死体も見掛けた。
 そんな中で、我々迫撃第二十一大隊第三中隊は、迫撃砲の辟力による搬送を栄養失調患者を励ましながら、部隊離脱者や一人の遅留者も出すなを合言葉に、細々ながら軍紀は保持されていた。
 峨々たる山嶮の登りも大変だが、重い大砲を背負っての下りはむしろ厄介であった。路端の草や木の根にすがりつきながら、すべり落ちないように注意するその苦労が大きかった。遅々として進まず部隊は梯団から遅れるばかりだった。
 業を煮やしたのか中隊長佐藤大尉は、昼間の行軍に加えて夜間も休まず前進することを命令する。中隊の将兵は不平をいいながらも命令に従った。私たちは病兵の続出、体力・気力の低下を充分掌握しての上で、心を鬼にして出された命令と受け止め、これを履行したのである。今晩もまた夜行軍かと、昼間探し回って集めた現地調達食料を口に押し込んで、一晩中歩き続ける。もうどうにでもなれと、捨てばちのフテクサレ夜行軍である。夜通し歩き通して朝を迎える。ところが昨夕の景観が少しも変っていない。まるで狐にばかされたようなものであった。何のための夜行軍か、一晩中、同じ所を歩き回っていたのではないか。酷使され、残ったものは病兵の増加と、体力・気力の消耗だけだった。朦朧の世界をさまよい続けているようである。
 行く手にはほとんど垂直に立ち塞るように突立った、石灰石のような絶壁が現われた。三十メートル程あろうか。そこには藤づるが五、六本ほどより合わされた。タグリ縄が吊り下げられていた。これをたぐって前進していった将兵は、歩兵部隊なので個人装具だけである。我が迫撃砲中隊は、四六・五キロの砲架と自分の装具を背負って登って行かなければならない。ロッククライミングまがいの必死の登攀である。人間の力の限界を越えた、真に神がかり的な行動であった。神仏に祈りながら、決死の覚悟でいどみ、それでも数時間を要してその絶壁を登りきった。
 そこは稜線の峯である。田圃の畦道程の狭い道があり、両側は切り立った断崖絶壁で、下を見ると目もくらむようである。下方には谷川らしきものが、樹林の中に白く光っている。高所恐怖症の私には、身震いする程の恐ろしい場所で、意識が朦朧としてきて、そのまま谷底へ飛び込みたくなるような衝動に襲われた。
 その時、だれしも予期せぬ事が突発した。二五・五キロの砲身を背負子に付け、搬送していた第四次の現役の補充兵H上等兵が、牛の背を歩くような屋根から「ああー」という叫び声をあげながら、砲身ごと急斜面を真逆さまに落ちて行くではないか。石灰石の白い土煙ととともに、数十メートルの谷底に一瞬のうちに消えて行った。
 私の後方三メートルほどの間隔で必死に追従して来ていたのに、振り返ったときには七、八メートルも転落していた。驚き見守る戦友も一瞬の事でどうする術もなかった。さっそく前方を行軍している中隊長に報告する。隊列は崩れ、部隊は大賑ぎになった。引き返してきた中隊長や小隊長とて、どうすることもできない。ただ谷底を無言で見下しているだけだった。殺さずともよいものを、また一人殺してしまった。将も兵もその場を立ち去り難く、立ちつくすのみだった。
 Hは、私の分隊の中でもいつも張り切り者で、進級も一線抜の上等兵だった。彼の故郷は長野県で、家には両親と若い妻、一歳になる女児の五人暮らしの平和な家庭だった。農林業を営んでおり、冬期間の雪の季節には鳥や兎を捕って生活を楽しんでいたという。平和な山村で、貧しくとも心豊かに暮らしていたのだろう。ところが徴兵検査の結果甲種合格で、現地入隊せねばならなくなった。昭和十五年徴兵として、十六年四月南支派遣軍岡本部隊佐藤隊に入隊した。名誉ある入隊と人はいうけれど、彼の家庭にとっては働き手、一家の大黒柱を失ったのである。
 南支・広東での一期の教育訓練では、私は助教を務めたので、露営のテントの中や行軍途中の大休止にもよく彼と話し合った。
「班長殿、ニューギニア戦は敗戦に次ぐ退却で、逃げ回っているうちに餓死するのではないですか?私は寒村に育ったので粗食に耐えて生きて来たから、米が無くとも草根、木皮を食べても生きて行く自信があります」と常に自慢するだけに元気な兵だったが、私にだけは大変親切にしてくれた。
 子供の頃から山登りが好きだったそうで、よく富山県の立山連峰や槍岳を登山し、岩場をロッククライミング征服した自慢話などを聞かされた。そんな彼が四十メートルや五十メートルの山稜から、栄養不足とはいえ、彼ほどの者が、砲身を背負っていたぐらいで転落するとは、どうしても考えられなかった。私は部下の悲惨な死を朦朧とした意識の中でフトあることを感じ取った。
フイニステル山脈の稜戦の縦走に入り、山嶮にさしかかり、切り立った崖の下にたどり着いた時、その崖下におびただしい数の機関銃、小銃、弾薬、眼銃、その他の兵器が遺棄されており、まるで武器の墓場の観を呈していた現場を見たことがあった。これからの転進に体力の消耗を防ぐため、将もそして兵もただ生きんがために最小限度必要品以外は、兵器も弾薬も捨て去ったに違いない。
 こんな情況下において我が迫撃砲部隊は、軍としての機能も軍紀もかろうじて保っていた。正に驚異の部隊といえた。しかし中隊のだれもが、砲の辟力搬送はすでに限界であり、これ以上の転進は不可能だと、無言の中で語り合っていた。H上等兵も、
「分隊長に最重量の砲架の搬送をさせることは、戦砲中隊の兵として分隊の恥だ!だれか交替する兵隊はいないか」
 と、いってくれたが進んで申し出る兵はいなかった。杖にすがって歩くことが精一杯の状況では、私にしても交替要員の出ようなどとは夢にも思えなかった。むしろ少しでも兵隊の負担を軽くしてやろうと、そのことのみを考えていた。
 その私の気持ちをどう察してくれたか、迫撃砲さえ無くなれば、退却梯団の最後尾を虫の這うように追尾して行かなくともよいのではないか。自分一人犠牲になればと、すでに死を決していたのでは無かったか。子供の頃から山を走り谷を渡り、筋骨逞しい肉体の持ち主であった彼が自分一人だけならどんなにしても死の落伍者とならずに済んだろうに。それは瞬時の判断でとっさに行動に違いない。砲身を背負って千尋の谷底に飛び込んで行ったのではないだろうか。自分を犠牲にすることによって中隊全員の転進を早め、分隊の負担を軽くしようとしたH上等兵の行動こそ、高く評価してあまりあるものだった。
 中隊全員は、彼の好意にたいして何をもって報いるべきか。それは一兵の落伍者、遅留兵も出さず、全員マダンまで転進することであった。彼の尊い死を無にしてはならないと決意して、我々は二度と見ることはないだろう谷底をあらためて見直して、足取りも重くその場をあとにした。
 間もなく大隊本部からの伝令で、私に中隊長同道で大隊本部へ出頭すべしとの命令があった。伝令は足早に命令を伝達して帰って行った。ついに来るべきものがきた。
「中隊長、ついに来るべきものがきましたね。ご迷悪を掛けて済みませんが、お願いします」と私がいうと。佐藤大尉は、背負っている砲架を置いていけといった。私は、「兵隊の搬送要員がなく、分隊長自らが搬送している姿を見て欲しいので、このまま行きます」と断固主張したので、現状のまま砲架を背負って、部隊長に申告した。私を見る部隊長の眼は、犯罪者を見る眼であった。しかしさすが古参の戦砲中隊長は、
「谷底に砲身を落とした自分の責任は、十分感じています。栄養失調とマラリアにかかっている兵隊に、無理な搬送を命じた中隊長の責任をとらして欲しい。本来なら、分隊長が砲の搬送をしなければならないなどと、迫撃砲教範には書いてないと思う。餓死寸前の兵には、あまりにも過酷な命令である。兵の搬送能力はすでにないものと思う。絶対不可抗力で有ると判断する」
と、厳然として弁明することなく、兵の体力低下による不可抗力の事故で有るむね声も荒々しく報告された。しかし、
「分隊長の責任は兵の行動の監査、適切な指導である。兵の掌握がなっとらんから、重大事故を引き起こしてしまったのだ。軍指令官閣下に報告し、厳罰を与えるから、軍法会議の結果を待て」
と、軍刀で地面をたたきながら、語気鋭くどなりつけられた。これが陸軍士官学校出身のエリート将校か、理性も教養もないその態度に、「一将功成りて万卒枯れる」とはまさにこんなものかと思った。我が部隊長ながら情けなくてならなかった。
 部隊長に叱りつけられている最中、脳裏をよぎったのが、「敗戦」という言葉だった。これはすでに決定的である。糧秣、医薬品、兵器、弾薬、飛行機に船舶、無い無いづくしでないか。いずれ米・豪軍に息の根を止められる体だ。現地食料もやがて食いつくす。すでに幾日も飯盒のお世話になっていないではないか。とどのつまり、最後は日本兵同士の人肉の共食いじゃあないか。早い遅いの差はあるかも知れんが、間違いなくあの世行きである。私も赤紙の兵隊ながら、一寸の虫に五分の魂、一生に一度の大芝居を打ってみた。
「部隊長殿。分隊長の立場からいわせて頂きます。H上等兵の不始末は、彼一人だけのものではないと思います。軍は糧まつも薬物の支給も皆無の中、サッテルベルグ高地から転進では血尿を排出してまでアント岬まで行き、そこからまたシオ、ガリまで脱出し、グンビ岬の敵上陸で体調を整えるいとまも無く、マダンへの転進を命令されました。転進の間の糧秣も軍直部隊の悲しさ、二十師団の将兵の二分の一しか支給されず、フイニステルの縦走に突入しました。部隊長は当番兵を通じ十分の糧秣の給与を受けたと思っているかも知れませんが、我々はわずか八百グラムの米しか受領していません。四、五日で食いつくし、あとは草や木の根で飢えをしのぐだけで、部隊全員栄養失調症ですか。追撃砲の辟力搬送に耐えうる兵隊が何人居るか現況、実態を掌握しておられますか。この山中に入ってからの撤退の途中、落伍者の集団、兵器弾薬を山の如く捨てた現場を見られなかったのですか。いいたくないですが、遅留兵の集団の中に人肉を食べているのを見ました。あなたも現場を見なくとも、当番兵や副官から聞いているのではないですか。
 知らないなら知らないでもいいですが、軍法の無法地帯にある現況だけは、しっかり掌握しておいてください。私を処断の軍法に掛けるなら、定量ならずとも二分の一定量でもよい、米を全兵士に食わしてからにしてください。それができたら、死刑でも銃殺でもなんでも甘んじて受けますよ。
 事故か不注意かそれは知らないが、また一人自分の部下が、極度の疲労から谷底に落ちて無残に死んだからといって、その兵を責める部隊長に統卒される兵隊は、どう考えると思われますか。私は、兵の気持ちを理解出来ない隊長には付いて行けない。バッサリ軍刀で切ってください」と、大タンカを切った。大島少佐は怒った。烈火の如く怒り、軍刀を抜きかけた。殺す気かもしれない。殺気を感じたので、どうせ殺されるなら言うだけのことは言ってやれと私は開き直った。
「今まで随分お世話になりましたが、一つだけ御礼のことばを申し上げます。今は軍法の無法地帯。兵隊も生きているだけで意識もうろう。私に同情した分隊の兵が、喪失した意識の中で部隊長憎さに何をするかわかりません。銃弾が敵からだけ来るものと思ったら、味方のしかも自分の部下から飛んで来るかもしれませんよ。その覚悟がついているならやってください」と、開き直った。最初から無言で聞いていた部隊副官長谷中尉が、部隊長をなんとか押しとどめてくださった。大島少佐も理性をとり戻したが、仲介に入った副官の顔を立てたか知らないが、思いとどまったようだった。しかし一下士官に理詰めにされた口惜さは、当分忘れる事ができなかったであろう。「帰れ!」で一件落着であった。後日、砲損失の「仕末書」だけは提出させられた。
 帰る途中、佐藤大尉はただ一言、「お前というやつは」とあきれたように頼もし気にいった。その信頼し切った姿を今でも時折り思い出す。
 かくして部隊長命令で、戦砲隊ただ一門残っていた追撃砲が破却されることになった。眼鏡、砲架、床板と次々に爆破して土中に埋めたのである。さて砲を破却してみると、運命をともにして来ただけに惜別の情ひとしおのものがあった。
 南支の広東、香港島総攻撃、ラバウル、ツルブから魔のダンピール海峡を渡り、フィンシュハーヘンからサッテルベルグ高地の攻防戦。シオ、ガリの総退却の時の苦労、糧秣の不足と栄養失調の中、病兵とともに辟力搬送してきて今、フイニステル山系に砲を失うとは真に残念。無念で致し方無かったけれど、今部隊の兵の体力・気力の状態からしてみれば、絶対に搬送不可能な極限であった。H上等兵の心情を無にすることなく、一人でも多くの兵隊を重症患者の担送、弱兵への現地食料給与に向けなければならなかった。転進目的地マダンまで部隊離脱兵、遅留兵を一名も出さず、歩兵部隊のような部隊になり下がっても、犠牲者を一名でも少なく食い止めるべく全員協力して行動してこそ、H上等兵の好意に報いることであり、残された我々の最大の任務でもあろう。その事を心に誓って、後髪引かれる思いでその場を出発。転進の行軍の速度を早めた。

灼熱の地に凍死体をみる
 迫撃砲の搬送がなくなったので、転進の速度は早まってきた。しかし栄養失調症、下痢やマラリアの患者をかかえての行軍であり、現地食料を求めての農園荒らしと併行しての重症患者の担送は大変な苦労だった。路傍には日を追う程に遅留兵のたむろする姿が増え、比例して死者の数も目立ってきた。ミンデリまでは山系の縦走だが、ミンデリからは海岸線を行くことになっていた。
 最大の難関といわれる山系最後の高峰(二、〇〇〇メートル)の峻嶮にさしかかるので、少なくとも四、五日分の現地食料の調達を命ぜられた。私たちは遠くのカナカの農園まで出掛けタロー芋、タビオカ芋、かんしょの葉、ヤシの新芽など栄養価の高そうな食料を収穫し、背負子に付けて準備した。
 最初は案外楽な平坦な尾根を通過してから、高峯の登りにさしかかった。急造の杖を作り、峻嶮な鬱蒼たる山岳密林に突入を開始した。山は歩行困難な負傷兵や重症患者の入山を、まるで拒否するかの如き様相を呈していた。それでも二日掛かりで、どうやら最後の頂上にたどりついた。
 それにしてもここは、あまりにも嶺峰が高い。それは樹相が明示していた。今までの樹海とは全く異り、見なれた山野の林相のおもかげはどこにもなかった。どの樹木も、水苔の類が密生して、あたかも寒さには耐えるための防寒着の役目を果たしているかのようだった。
 早くも夕日が落ちた。そこにはタソガレも無く一気に暗黒の夜となる。首筋に冷水を浴びせられたように寒気が突然襲ってきて身震いをさせられた。夜営の準備をと飯盒炊爨をするにも、屋根にする材料もなにも無かった。ましてや火を燃やす薪の枯木などあろうはずが無かった。絞れば水の出るような水苔を被った生木ばかりである。ままよと欠食することにして、野宿をすることに決めた。
 夜が更けるにしたがって、寒気が肌を針でさす如く感じてくる。暖を取ろうにも生木に火は付かない。その時、先日戦死したH上等兵から聞いた話を思い出した。立山で遭難しかけた時、生木を楊枝の様に細くけずり井げた状に組み、火種のおき火を作り、段々と火勢を強くし生木を乾しながら炎を大きくして行き、暖をとったということだった。よしそれをやってみようと準備を始める。疲労と瘦た体に骨の髄まで刺す寒気に、睡魔にとりつかれて眠くてどうしようもない。たき火を作りながら眠らないように歌を歌って、もうろうとする意識を必死で振り払って頑張った。分隊の兵隊も火が見えるので、私の所にみんな集まって来た。小さな赤い炎だけでも、随分と暖かく感じられた。かつて弘崎連隊で冬の八甲田山で演習した時、道に迷い吹雪の山で全員死亡したという話を思い出し、絶対に眠っては駄目だと眠らない様にと兵隊にも注意する。
 凍死する時は、非常に気持ち良いもので、眠っているうちに天国へ行ける。死ぬ方法として最高の死に方だと、かつてH上等兵と話し合ったこともあった。眠りに引き込まれそうな兵隊に「ビンタ」をくれて目覚めさせることに、一晩中走り回った。夜の更けるにしたがって火勢も次第に弱くなって行く。薪をつぎ足す速度も途切れ途切れとなり、寒気は執拗に襲いかかってくる。しゃく熱の島で凍死者を出したとあっては、分隊の長として故郷の家族に謝罪の方法も無い。私は、薄れゆく意識をふるい立たせるためにも、けん命に動き回った。とろとろと心地良く、何の苦痛もなくなりかけてきては、
ハッと我に返る。気力をふりしぼって薪を作り火勢を強くする。手頃な棒切れで兵隊をたたいて回る。
 高峯といっても二千メートル前後であろう。気温にしても〇・一度くらいなのではあるまいか。我々の被服は夏衣袴の半袖、半ズボン、頭が重いので軍帽さえ捨てて無帽の兵隊もあった。その上栄養不良で、病弱体である。真夏から一気に冬という、温度差に体がついて行けないなど、考えられる要素は色々あった。こんな体験は、だれもがかつてしたことが無かった。
 幸いにして、東の空が少しずつ明るくなってきた。間もなく夜明だ。長い長い夜が明けかけている。我が分隊には一名の死者もなかったが、部隊では十数名の凍死者を出して、悪夢の夜が明けた。暁光を迎えた喜びは、何にもかえ難いものであった。朝食は無くとも、水苔を絞り喉をうるおし、水分の補給をして行軍を開始した。
 数日前、部隊が砲の搬送で虫の息で転進していた時、我々を元気に追い越して行った約一個小隊はどの歩兵部隊があった。割り合いしっかりした足どりの四、五十名くらいの部隊であった。我々が歩き始めて間もなくその部隊が、細い山道の両側に別れて一列ずつ隊伍を組んで休止しているのに出合った。よくよく注意してみると、様子がおかしい。小銃に寄りかかるようにして整然と休んでいるように見えたが、近寄って見ると、座金の襟章を着けた見習士官を先頭に、全員凍死しているではないか。手で触れても反応がなく、力をこめて押すとそのまま何の抵抗もなく倒れた。若い見習士官で、恐らく戦場体験も少ない小隊長であったのだろう。適切な指導をしていれば、無駄に兵隊を死に追い込むこともなかったろうに。
 しかしどの死顔も、髭と垢とにまみれてはいたが、安らかな死に顔をしていた。たぶん故郷に帰った夢でもみながら昇天して行ったのであろう。我々が生還出来る確率は三十分の一か四十分の一だろう。その計算でいくと、この中の一名か二名しか故国に帰れないことになる。この先どれほどの飢餓と病魔、敵の攻撃など死に勝る苦痛が待ちかまえているかと思えば、安らかに夢見る如く散華した方が幸せであったかも知れない。
 こんな途方もない地獄の山越えも、やがて終幕に近づいてきた。平坦な下り坂が続いたあと目前が大きく開けて、大きなサバンナが見えた。カナカの廃農園らしきものも視界に入ってきた。
 重い足どりの将も兵も、別人の如くガーデンに向かって走り出した。
 廃農園の面積はかなり広かった。近くには大きな原住民の集落もあるだろう。食料も豊富にあるに違いない。私もまた、兵隊たちのあとを追って走った。しかし甘い期待は裏切られた。そこはすでに先遣の通過部隊が荒らし回ったあとだった。それでも農園面積が大きかったので、必死で探し回った結果、掘り残こしのかんしょを七、八本掘り当てることができた。その外、未熟なパパイア、青くて小さいバナナも発見することができた。
 分隊の兵隊も、盛んにかん声を上げてまるで宝探しをやっているみたいに叫びながら、ガーデンを探し回ってそれぞれ戦果を挙げたらしい。
 水も無い。しかしみんな水を求めることより、焼き芋を焼き、バナナを一刻も早く食べるのが先であって、飯盒にそれぞれ戦利品を入れて炊餐に取りかかっている。
 その時、はるか上空を二機の偵察機が飛来して行った。しかし火を消す者も、煙を遮蔽する者もいない。連合軍のグンビ岬上陸により、日本軍が海岸道をさけフイニステル山系の稜線の山道をマダンへ退却と感知して、そのルート発見に懸命であったが、どうやら発見したらしい。しかし我々には明日の爆撃より今日の飢を満たす事の方が先決であり、遮蔽物の無い農園の真只中で食事ときめ込んで、どうやら幾日ぶりかで胃袋を満足させた。半焼けの芋でも口の回りを真黒にして、将も兵も人間の本能の命ずるままに、餓鬼のようにして食べまくったのであった。
 ようやく全員息を吹き返して、携行用食料にとかんしょの葉やバナナの茎、パパイアの未熟な青い実を背負子にたっぷりつけて、農園を退去した。グラマン機が引き返してきて銃砲撃を受けないうちにと、我れ先に山道を下って行く将兵の姿は、あまりにも現金なものだった。
 さて満腹になってみると、今度はほしいのが水である。山の稜線を行軍していたので、スコールの全然ない状態では水を得る方法がない。空の水筒に時にそっと口を近寄せてみるが、無い水は出てはこなかった。樹木に密生した水苔をかんで、少しでも渇をいやしたこともあったが、水分の補給にはならなかった。
 ふと思いついた事があった。南支に駐留していた折りに二、三十本群生して生えている竹林(日本の竹林と異なり、節にトゲがある)の竹を切った時、その節間から水が出てきたことを思い出した。その南支に群生していた同種類の竹をこの樹林の中で発見したのである。
 早速切ってみる。あった、節間に少量の水を発見した。幾節も切り、水筒に水滴のように流し込むと、一時間ぐらいの作業でどうやら生臭い水ではあったが甘い水でのどを潤すことが出来た。乾物の様な体にやっと生気がよみがえり、元気が出てきた。転進の足も軽くなって、歩みの遅い部隊を追越せるようになってきた。
山腹の道はもう登りは無く、下り一方なので、病兵も体力の消耗も少なくなり、笑顔も見えて来た。
 突如、山肌を伝って清水が水しぶきを散らす、細い谷川を発見した。夢中でかけ寄り、じょうごで口に水を注ぐかのように腹に水を流し込んだ。「ああ、生き返った」みんなは異口同音に叫び合った。
 その時、風に乗って何か異様な臭いがただよってきた。見回すと確認するまでもない餓死体が、川辺に無数に転っていた。ある者は水中に首を突込み命果て、またある者は手を弧空に突き挙げなにかをつかまんとして力つきたかのように倒れている。高温のため死体の腐敗は早い。
 ういういしい童顔の兵隊もいた。絶命してから幾時間も経過していないのだろう。また栄養失調の重症患者だったのだろう。フグみたいに腹だけ膨れ上がっている死体。それでも絶息してさほど時間が過ぎていないのか、ギンバエも卵を生みつけていないようだ。合同の墓場、象が死期を予知すると象の墓場で人知れず死ぬという。その光景に似たものがあった。
 気力を振り絞って山系の屋根を伝い、断崖絶壁を登攀し千じんの谷を降り、凍死をまぬがれた栄養失調の弱兵が、ミンデリまでなんとか転進し、海岸道に出れば生存も可能と信じ、この水辺に到達した。ほっとしたとたん生命の緊張の糸が切れたかの如く、安堵で絶息したものと思われる。無念この上もなかったであろう。その心情を思いやる時、哀れという他に、言葉もなかった。明日の我が身が思いやられて、はかり知れぬ不安に襲われたのだった。
 感傷にひたっている時、弱々しい声ではあるが、必死の思いを込めた「泥棒、どろぼう」と連呼する兵隊の声が聞こえた。隙をねらって病兵の持ち物を白昼堂々とカッパラウ掠奪者も横行しだした。しかし「取り返してくれ」と泣いて頼んでも、振り向いてくれる兵隊はいない。みんな他人事のように通り過ぎて行く。
 盗まれた病兵には、かけがえのない貴重な品であろう。自分の身は自らが自衛しなければならない。無法地帯の弱兵こそ気の毒である。
 転進の合間に、タビオカ芋やタロー芋などの携行糧秣を、分隊の患者の分まで集めることは至難の業であった。一日中探し回っても、何も発見することが出来ない日にあった。
 砲が無くなったので、転進梯団の先頭を行く事が出来るようになってからは、カナカの農園や通過する集落からの食料の集積が出来、少しずつではあるが、食料事情が好転して行ったのが何より心強かった。時折りヤシの果実にも恵まれ、ヤシ水やコプラも入手できるようになって、大変ありがたかった。
 ここの原住民は食べ物には恵まれており、天然の恵みがいくらでも入手できたから必要以上に働くことは不要だった。保存食を作ることもなかった。野菜や果実、主食の芋類は焼畑農法で山林を伐採してその木が乾燥したときに火を付けて燃やし、土壌消毒と肥料を得る。そうして切り開いた農園にバナナ、パパイア、かんしょ、タロー芋を移殖しておけば、助走も追肥の必要もなく作物は自然に生育、成長して果実を実らせる。芋類は地下茎を肥大させ、彼らには十分な栄養源となり生活には何の不自由もなかった。
 地力が落ち生育が悪くなるとその農園を廃園とし、また次の農園を開拓して行く。そのサイクルのくり返しである。原則としていずれも部落の共同作業で農園作りをする。したがって他人の分まで作る必要は無かった。動物性蛋白は、野鳥や野豚を弓や槍や「ワナ」を仕掛けて捕り栄養のバランスも十分考えて生活していた。
 我々がこのカナカの廃農園を荒らし回って、現地食料を集めていた最初の頃はまだ良かったが、日本人特有の利己主義が頭を持たげ、彼らの生活源の農園や集落のヤシの木を切ったり、農園の夜襲をくり返し、彼らの生活権を徐々におびやかしていった。

水魔の悲劇
 峨々たる稜線を登っては降り、下ってはまた登る頻繁な昇降は、栄養失調や、マラリア、アメバー赤痢の患者はもちろんのこと、健康な将兵でも糧秣の不足で、体力は非常に低下していた。断崖絶壁をようやく越えたとしても、更に転進を阻んだのが稜線の間を流れる渓流であった。
 普通の時であれば二十メートルか三十メートル幅の谷川なら膝まで程度の水深なので渡河は比較的容易であるが、ひとたび上流地区にスコールでもあれば、たちまちにして奔流と化し、一メートル余の段をなして押し寄せる。狂暴な滝を思わせるような激流に、徒渉中の将兵はひとたまりもなく打ち倒された。足元の石に足を取られて押し流され、転石に打ち当てられ溺死する者、その数を知らずであった。
 この渡河中に、第五十一師団経理部長仙洞大佐が溺死し、庄下少将も一度押し流されて岸辺の木の枝に引っかかり、九死に一生を得たのもこうした魔の河であった。
 中でもチンベリ河が特に狂暴で、迫撃大隊の隊長大島少佐が中州で震えながら一夜を明かしたのもこの河で、私の同年兵の第一中隊付市村中尉もこの河で溺死し、死体は海中に押し流されてしまった。あとで第一中隊の兵隊に状況を聞いてみると、渡河に際し軍刀を抜いて頭上高く振り上げ、「我に続け」と叫んで河に跳び込んだのだそうだ。彼のやりそうなことではあったが、十メートルも行かないうちに激流に足を取られ、押し流されてしまったという。
 海岸近くの渡河点の上空を敵のノースアメリカンが旋回していて、一兵でも発見すると無数の弾丸を打ち込んできた。全く動きがとれないこともあった。
 山に河にうちのめされながら、我々はとにかく海岸の拠点ミンデリまで到達した。ここでは他人者部隊の軍直部隊なので、中井支隊から支給された糧秣は少なかったが、ガリを転進してから久しく米食にありつけなかったので、将兵は大喜びで久方振りの笑顔がみられた。
 夕食も終わり、潮騒の音を聞きながら満点の星空の中に南十字星を見て、また望郷の念にかられながら夜更けまで兵たちと語り合った。東天が白み始めると、間もなく水平線に太陽が昇りかけてきた。支給された白米に現地食料のかぼちゃの葉を入れ、野菜入りの粥を作り朝食にした。朝食も早々に、私たちは「さあ、マダンまで」と声を掛け合ってミンデリを出発した。十メートル程の高さの喬木に覆われている海辺の路を、マダンに向かってひたすら急行軍するのであった。
 突如、目前に川が見え、行き当たってしまった。たいていの川は河口に砂礫が堆積していて、徒渉にはそれ程苦労はしなかったが、この川は川幅はそんなにはなく五十メートルほどだが、水深は大分あるようである。
 そこには監視哨の分哨が勤務しており、敵飛行機の監視をしていた。立哨中の衛兵に聞くと、平常は腰高で渡れるが、フイニステル山系の奥地にスコールでもあったのか、水深も川幅も、今日は深く広くなっているとのことであった。流速が相当に早いので、徒渉には十分注意された方がよいと、ていねいに教えてくれた。
 体力のある兵隊、体力の低下している兵隊、マラリアの兵隊、栄養失調症の兵隊、このさまざまな迫撃砲隊をどうしたなら渡河に成功させることができるか。佐藤大尉は将校・下士官に集合を命じて、渡河に対する作戦をどうするか諮問された。
 私は故郷が信濃川の河口近くの村であり、川に対しての知識は豊富だった。そこで、「私の考えでは、太い竹竿を切り出し、その竿の長さに兵隊を横隊に並べ、十人一組として強兵・患者・弱兵・強兵とその体力順に組み合わせ、竹竿を持って一斉に渡る。そうすれば事故者も出さず、渡河を完了できるのではないか」
 との意見を具申した。中隊長外、全員の賛同を得たので、竹竿渡河作戦で対岸を目指すことにした。
 ブッシュの中の竹を切り出し、適当な長さに切って渡河準備を完了する。あとは監視哨から聞いた定期的に旋回してくる偵察機の過ぎ去った直後を決行の時と決めて、ブッシュの中にかくれて敵機の去るのを待った。衛兵がいった通り、定期的にやって来た双発双胴のロッキードが五機編隊で河口の上空を旋回して、マダンの方向に飛び去って行った。
 この好期をはずしてはと、素早く渡河を開始する。まず私の分隊が先陣を切る。十名で一組とし、私はその中央に位置して指揮をとることにした。装具は頭上に結わえ、監視哨兵全員が珍しい渡河風景を見守る中、静かに川中に入って行った。
 十メートルくらい進むと水深は、体の小さい兵隊の胸の辺までもあり、河底の小石が早い速度で水流に押し流されており、たちまち足を取られる兵隊が出てきた。「竹竿から手を離すな」「一人や二人足を取られても、残りの兵隊でふん張って向岸まで必死で進め」と私は声高に叫びながら、特に体力の弱っている兵隊に十分の監視と注意を怠らなかった。足を取られても他の戦友がふん張っているうちに体勢を整えて徒渉を続ける。岸が近づくにしたがって水深も浅くなり、流水も段々ゆるやかになって、十名無事に渡河に成功した。私は病兵の装具を背負ってやったので、水漬けにはなったが流失せずに返してやってほっとした。
 第一陣が成功したので、次から次へと同じ要領で渡河し、全員無事一名の溺死者も出さなかった。先陣で徒渉した兵隊の中から、不測の事態で押し流された兵隊を救助すべく、強兵を下流に配置待機させていたがその必要はなかった。その間敵飛行機の襲来も無く、その幸運を喜び合った。河口の監視哨も、その後の渡河にはきっと竹竿応用方法を教えてやったことと思われる。それにしても見事な渡河であった。
 このあと中隊は、連日幾本かの小川や河川を渡ったが、足のすねまでの水深であったから苦労はなかった。
 しかしいよいよマダンまで四十キロという地点に到達した時、遂に大川につき当たってしまった。マラグラム川の河口は、流水部は平時でも三百メートルくらいあるといわれている。徒渉不可能との判断で、上流に向かって進み、渡河可能な地点を探すことにした。
 川に沿って上流にのぼっていくと、川が大きくわん曲して方向を大きく変えた所まできた。そのわん曲部には中州もできていた。それでも流水部は百五十メートルくらいはありそうだ。上流の狭い渡河地点を求めて、一キロほど進行した時、水冷式戦闘機カーチスホーク型の六、七機編隊の急襲を受けた。大混乱のうちに遮蔽物を求めて逃げ回る。不幸にもそこは河原、何十回もの反転掃射をしてくる。この敵機の襲撃で、残念ながら四、五名の負傷者を出してしまったが戦死者が出なかったことが、せめての慰めであった。
 上流にも最適地が見当たらなかったので、わん曲して中州のある地点まで引き返す。すでに夕暮れが迫っていたが、敵機ノースアメリカンが三機河川に沿って上空を河口の方向へ飛び去って行くのを見たので、この機会にと、竹竿に十名一組の渡河班を編成して、一列横隊で前回の徒歩の要領で第一目標の中州まで渡渉を始める。先の敵機の機銃掃射で負傷兵が出たので、その担送もあり大変な苦労である。今回も私の分隊は先陣を切る。私は今回は負傷兵を背負って行くことにした。紐でガンジガラメに私の体に縛り付けての担送である。私は長身なので水深や水流に負けるようなことはあるまい。意を決して竹竿を握りしめ力強く進発する。
 水流によって河底に変化がないか、河底の転石に足を取られないようにと、お互いに励ましの声を掛け合って、中州にどうやらたどりつくことができた。心身ともに疲れ果てたけれど、背負った負傷兵の感謝の涙で疲れも吹きとんでしまった。無事大河を跋渉し終わって二重の喜びであった。
 中州の水際には身長より高いアシが生えていたので、一同はその草むらにもぐり込んで、次の渡河の準備に一息入れた。
 南国の日暮れは早い、まだ残された渡河があるのだ。しばらく小休止して、次の渡河に移る。今度は水深も浅く水流もゆるやかだったので、予測していたより苦労も少く、全員無事渡河を終了した。
 敵機の被弾を受けた兵隊も栄養失調で弱った兵隊も、幸いなことに全員力を合せての行動で溺死者もなかった。暗夜は迫り来る河原に、夕食の準備も出来なかったので、欠食で明朝を迎るべく河原に野宿ときめた。草を敷きアシを掛けて、酷使した体を休めて眠ることにした。横になると同時に、死人の如く前後不覚に眠り込んでしまった。
 夜半と思われる頃、寝ている体の下を水が流れるのに気がついて目が覚めた。何事かと飛び起きた。昨夜は暗かったけれど河岸から大分離れた川原で露営したはずなのに、水の中に寝ているとは、キツネにでもたぶらかされているのではないかと不思議に思っていると、不寝番の歩哨が、「全員起床、河川の水が増水して来るぞ」と、必死に叫び全員を起こして回る。
 非常事態発生!河川の急激な増水により河川敷まで川幅が広くなり浸水して来たので、速やかに河川敷より退去するよう、中隊命令が伝達された。水浸しになった装具を暗夜の中取りまとめ四、五百メートル退避する。各分隊長は分隊の人員点呼をして、異状の有無を報告するように伝令が来た。至急非常点呼をとると、私の分隊でもK上等兵が不明であった。
 Kの戦友に聞くと、川岸近くで天幕をかむり寝ていたとのことである。濁流に押し流されたと判断しても、間違いはないだろう。露営の指導の悪かった自分の責任を感じ、中隊長に報告する。各分隊点呼の結果、七名の兵隊が不明とのことである。暗夜のこととて対策とてなく、ただ河川敷より遠くに退避するだけで夜明を待つことにした。
 不安のうちに夜明を迎えて驚いた。昨日の中州が一夜にしてなくなっている。暴れ川の恐慌を、これ程身近に感じたことはなかった。段をなして増水して来る濁流の凄まじさに、肌に粟の生ずる思いであった。一夜にして中州が無くなり、七名の兵隊を押し流してしまった魔のマラグム川。ずぶ濡れの衣服を乾かす火も無く、敵機の襲来のないうちにと、早々に流された兵隊に別れを告げ、ジャングル道をマダンに向かって急進する。
 文明人を寄せつけぬ魔境の地ニューギニア。峨々たる峻険、凍死者さえ出る高峰、濁流さかまく魔の河、その上栄養失調にさいなまれ、マダンに到着したヨレヨレの将兵は約九千五百名。三千五百余名の死者を山中に、あるいは川中に捨て去って来たのだった。マダンに集結して聞いたのが、ビスマーク海における要害の地アドミラルテー諸島が、米軍の掌中に帰したとのことであった。
 マダン地区に残されていた糧秣集積所で、最低の食料と若干の被服が支給されたが、ここも休息の地とはならなかった。戦闘可能なまで体力の回復を図るには、二ヵ月余の静養が必要といわれたのに、あまりにも酷な話であった。
 昭和十九年三月頃になると戦況は大きく変り、東部ニューギニアの第十八軍を指揮して来た、ラバウルの第八方面軍の今村均大将も統制できない状況になってきた。加えてラバウル方面の戦況も、敵機動部隊の作戦でほとんど孤立無援の状況になっていた。
 当時豪北作戦に備えて、西部ニューギニアのサルミ付近の要衝から、アル島を経てタニンバ島にわたる線を確保していた阿南惟幾大将の指揮する第二方面軍に、東部ニューギニアの第十八軍をその戦闘序列に編入させ、ウエワク以西の地区で持久戦を策する如く命令したと、戦史誌は報じていた。
 とすれば知らぬが仏、我々将兵は中央統帥部から見捨てられた兵団となっていたのである。
 かくして第五十一師団、第二十師団がハンサに向けて出発していったので、迫撃砲大隊もこれに追尾して、マダンからハンサにむけてまた死の転進をせざるを得なかった。

ハンサの死闘
 マダン周辺は、昼間はまともに歩けない程敵の監視がきつかった。特に飛行場付近は爆弾の仕業か、大きな池が無数に点在していた。友軍の重爆撃機が、列をなして無残な姿で放置されている。これでは日の丸を付けた飛行機を、一度も見ることが出来なかったわけだと納得した。
 海岸道は疎林に覆われているので、敵機の警戒の必要はほとんど無くなってきた。時折りカナカハウスや廃農園にもめぐり合いパパイアやバナナも手に入る。またヤシの実にも恵まれて現地食にもありつける楽な行事ができたのは何よりであった。迫撃砲部隊に、砲のないことはいささか心苦しかったが、搬送に要する兵の負担が無くなり転進の先陣でもあり、この点有利に転進できた。レモンもこの時始めて食べたが、この味は忘れることができない。
 かくして、ヤシ林の中に点在する輸送司令部、軍兵站病院のあるハンサに到着したのであるが、その時すでに輸送司令部も兵站病院の入院患者も、夜間舟艇を利用してウエワクへ脱出していた。とにかく我々はここの最右翼地に宿営することにした。
 ハンサに到着した翌朝、沖に巡洋艦らしい七、八隻が現れた。通過艦隊とかと見守る中、午前七時頃からその艦隊から猛烈な艦砲射撃を受けたのである。第一弾が最右端地にある我々の野営地に命中し、そこから次第に左方へ薙ぐように掃射する。
 海岸地帯で野営する時は、その状況にもよるがたいてい一人しか入れないタコツボ壕を掘り敵機の襲撃に備えていた。
 敵の砲撃は実に見事なもので、連装式の砲から発射される弾着点はあっぱれなものであった。多分十五・五センチ砲だろう。海岸は樹林である。ジャングルの中の部隊の野営地に対し、砲の弾頭に瞬発真管を使用するという念の入れようである。これはジャングルの木の小枝に命中しても爆発するのである。弾丸が上空で破裂すると雨あられの如く破片が飛んでくる。我々は頭を守る鉄帽などとっくの昔に捨ててしまっていた。無限地獄とは、まさにこの事であろう。阿鼻叫喚、の修羅場と化してしまった。タコツボ壕では瞬発真管の砲弾は防げない。私は壕に見切りをつけて飛び出し、かたわらの襞のある熱帯樹の大木の根に体を寄せるのが賢明と、とっさに判断してそこへ逃げ込む。
 各部隊入り乱れての宿営地。散開して掘ったあちこちの壕から、「痛いよう」「痛いよう」と必死に泣き叫ぶ声が耳に突きささる。将校だろう「衛生兵、衛生兵」と絶叫している。手当てに走る何者もいない。祈るように艦砲射撃に終わるのを待つばかりである。叫び声も次第に力なく細くなって行く。間もなく死の暗に引き込まれて行くのだろう。敵の砲撃は衰える気配もなく、頻繁に至近距離に着弾する。大木の根元にへばり付いて、死の来るのを心静かに待っていたものの、恐怖は去らない。
 幾時間経過しただろう、射撃間隔が遠くなり、間もなく艦隊は帰路についたらしい。しばらくは放心状態が続いていたが、やがて中隊長から各分隊長集合を命ぜられた。各分隊の被害状況、負傷兵、戦死者の有無を速かに掌握報告せよとのことであった。私の第一分隊からは戦死者は出なかったが、重軽傷合せて五名の要治療の兵隊を出し、中隊では二十数名の多くの犠牲者と負傷兵を出し、ニューギニア島上陸以来最大の痛手を負った。
 担送転進の不可能な重傷者もおり、その手当てと被爆戦死者の遺体の埋葬で一日が終わった。長い長い恐怖の一日であった。
 ようやく夜のやみが、海岸のジャングルにも訪れた。負傷兵だろう、すすり泣く声に胸がえぐられるようだ。軍医が中隊長の要請により負傷兵の治療に見回る。衛生兵を帯同しての巡回である。何気なしに重症患者との話を聞いた。軍医は話す気力もない出血多量の中隊のK兵長に問診する。
「苦しいか」
「死ぬ程苦しいです。軍医殿何かよい治療をして下さい」
「そんなに苦しいか」
「苦しい死ぬ程苦しい」
兵長はすがり付かんばかりに哀願している。
「それでは明朝までぐっすり眠れる注射を打って楽にしてやろうか」
「軍医殿お願いします」
 と重症のK兵長はいう。部外者の私がみたところでも重傷であった。無心に楽になると信じて注射を頼むKも、生きたいがための一念で注射の依頼をしたのであろう。軍医がどの様な薬品を使って治療を施したかは私には分からなかった。
長い夜が明けた。昨夜の負傷兵はどうしたかと行ってみると、すでに兵隊は事切れていた。止血の処置も、三角布で包帯した跡も見受けることができなかった。昨夜の会話からして、楽になる注射の意味が理解された。「死の注射」であったのである。
酷い話だ、治療して苦痛を少なくしてやるのが軍医の任務ではないか。たとえ助からないにしても、楽にしてやるといってだまし討ちにするその行為は許す事が出来なかった。
負傷している兵隊を治療しているのは、衛生兵だけである。艦砲射撃を受けている時、各中隊の軍医はどこにいたのだろうか。多分御身大切に壕の中か大木の根本で震えていたのではないか。敵の艦砲射撃で被弾し、泣き叫ぶ将兵の悲痛な声が聞こえなかったのか。「軍医殿、軍医殿」と必死に叫ぶ声が聞こえなかったとはいわせない。
ミンデリで僅かな糧秣を受領したとき、医薬品や衛生用品も支給されたはずなのに、このたびの被爆では何一つ治療をしてくれなかった。
 第三中隊のO軍医はサッテンベルグ高地の陣地で攻防戦を展開していた時、当番兵を使って現地住民にキニーネや赤チンをやり、かんしょやバナナなどの現地食と交換していたということを度々耳にしていた。公私のけじめのつかない非道な軍医は、中隊中の嫌われ者だった。
なおもいえば、かつて南支の広東やラバウルに軍の慰霊所なるものが設置されていた。我々はこれを呼んで、共同便所といっていた。軍の慰安所で働く女性は、週一回性病の検査を実施していた。この便壺の検査を彼は一回も休んだことが無かったそうだ。当番制なので、他の中隊の軍医の番を度々交替してやったこともあったという。慰安婦は、検査の結果罹病していれば完治するまで営業停止である。収入源がとざされては飯の食い上げだ。そこで袖の下を使って手加減をしてもらう。時には新入りの美女が入ってくると、味見をしたなどと公言していた。
負傷兵の治療もせず、苦痛を止めてやるといって、息の根を止める注射をするとは、非道この上もない行為である。しかしこれがニューギニア戦の象徴なのかもしれない。
軍医としてもピンからキリまである。しかし昭和十九年以降ニューギニアに送られてくる軍医は、全く員数でしかなかった。笑えない話であるが、小児科や耳鼻科の先生方、最低の代物は産婦人科専門医で、激戦のニューギニアでは何の役にも立たない。
 それにしても敵の艦砲射撃は派手なものであった。海岸のヤシ林や海辺のジャングルに撃ち込んだ弾丸は、推計数十トンといわれ、ハンサは全く焼野原となってしまった。持てる国の物量作戦には圧倒される。彼らはその身に何の危険も感ずることなく、やすやすと相手を制圧できるのである。
 ハンサ湾は一時期、輸送船や艦艇が何杯も入港し、何十隻もの「大発」が貨物の揚陸に忙しく働いていた要港であった。高射砲も数十門備えられ、寄せ来る敵爆撃機を片端から撃墜する時期もあったとのことであるが、三月初旬頃連日三、四十機のB24コンソリデーテット爆撃機の猛爆により、五百キロ爆弾で徹底的に破壊しつくされ、高射砲隊も全滅し、今では総て跡かたも無く爆弾の穴ばかりで、数知れぬ戦死将兵の墓標ばかりが無なしく目立つ惨状であった。
 敵機の空襲を避け足早に、荒涼たるハンサをあとにし、ウエワクへ向かう。それは四月上旬放浪の旅でも過酷な死の旅路への旅立ちでもあった。
 中野第五十一師団、片桐第二十師団の各部隊は、座して指揮をとる方面軍司令部のいとも簡単な一言「ウエワクまで来い!」に動き出した。しかし第二方面軍の指揮下に入れとの命令もウエワクまで直線にして七百キロはある。曲がりくねった海岸線を歩いても道路があるわけではない。起伏の激しい地形で山もあればラム河・セビック河の大河から湿地帯、七百余キロの行程に、軍からの食料の給与は考えられない。現地食をあさりながら歩くのである。いと易くウエワクにつけるとは思えなかった。
 さて話はさかのぼる。二月二十九日連合軍のアドミラルティ諸島・マヌス島への上陸の報である。この上陸により第八方軍在ラバウルの司令官今村均大将-アドミラルティ-マダンの三角要塞もその意味をなさないことになってしまった。
 第十八軍安達中将は三月中旬、第四十一師団の一部庄下支隊にマダンを確保させるとともに、第四十一師団の主力をハンサに後退させラム河地区に於ける支とうとする。この間、軍の主力をセピック河西の地区を転移し、第五十一師団をもってウエワクに、第二十師団をブーツ地区、次いでアイタベに挺進させながら、ウエワクの基地施設を逐次ホルランヂヤに転移させる事にしていた。こうして西方への大移動が開始されたのである。
 戦誌が綴る昭和十八年の西部ウエワクの戦況に話を戻すと、七月に急きょ新編成されたジャワから転出の第六、七の両師団を合せ第四航空軍を編成。寺本熊市中将を司令官に任命、主としてニューギニアの戦場を担当させることにした。同年七月、飛行基地五ヵ所が完成、敵の飛行場を空襲できるまでになり、ようやく前途に一条の光を見い出すまで至った。
 この時期は、東部サラモア戦線が膠着状態にあり、中野第五十一師団が撤退する二ヵ月前のことであった。不利な態勢にあった東部ニューギニアに挽回の曙光がみえ、第十八軍への期待とともに第五十一師団将兵への大きな力づけとなった。
 だが米軍情報網はすでにこの情報をキャチしており、第七飛行士団の新編成とウエワク進出をすでに察知していたのである。その上、米軍のレーダーは日本軍機の動きを追跡し、決して見落とすことなく準備していた。
 八月十七日払暁、敵の戦爆連合大編隊が巨峰の山あいを巧みに利用して接近、ウエワクとブーツの飛行場に波状攻撃を仕掛けてきた。これによって地上にあった我が軍飛行機約百機は炎上した。
 敵機監視レーダーの無い、ただ一つ兵の肉眼や耳による敵機発見では、あまりにもお粗末である。虎の子の聴音機も高山に音がさえぎられ、敵機が目前に姿を現すまでその音を捕えることが出来なかったのである。
 九月十三日、敵は再び来襲し、我が軍が補充した五十機を大被した。これでニューギニア空軍の基盤がなくなり、その後わずかに第十二野戦防空隊の二個大隊のみになってしまった。その上、補給に重要な役割を持つ輸送機にいたっては、この地で二度とその姿を見ることがなく、日本の航空態勢はますます哀れなものとなり、安達軍司令官の念願であったダンピール西岸の保持は、音を立てて崩れて行ったのであった。
 第十八軍の期待の曙光は消えた。そしてグンビ岬の敵上陸とともに、ニューギニアは暗黒と死の島に変貌していったのである。踏んだり蹴ったりの第十八軍ではあった。これでニューギニア戦も大局的には終わりを告げ、軍中央はこの作戦経過からみて、すでにニューギニアを放棄することに踏み切ったのである。
 どうにか生きているだけといわれる第十八軍さえ、指揮掌握する事のできない第二方面軍では意味がない。したがって南方総軍寺内大将の籍に編入し、南方作戦から除外したのである。こうしてラバウルの今村均大将は全くの隠居の身となった。
 昭和五十年に私が、ニューギニア戦没者の慰霊巡拝のためブーツ地区を訪れた時、丈余の草原の飛行場跡に、二十数機の日本軍飛行機が点在していた。くさりかけたその残骸を見た時に、任務も果たせず地上で愛機が次々と爆破炎上している光景を、搭乗員がどんな気持ちで見ていたであろうか。無惨にも散華した飛行士たちが軍中央の無為無策に怒り心頭に達したであろうことを昨日の如くに思いやられた。ジラルミンのエンジンに三菱重工の社名がかすかに読み取れたのもまた哀れであった。
 日本の軍備と対等な中国での戦いは、どうにか面目をほどこしていた。しかし米国は、高度な科学と豊富な物資に新兵器も保有していた。我々が想像だにしなかった乱数表による暗号解読の技術。日本軍が行う各海戦、上陸作戦や重要な物資の輸送中に、忽然として敵空軍の大編隊と大部隊が出現した。現地指揮官の考えてもみなかった事態が、現実なものとして強くのし掛かって来た。この実態を軍中央は少しの疑念をもたず見過ごしてきた。その迂闊さが戦局を破局へ破局へと引きずり込んでいったのは決して不思議なことではない。
余談になるが私が師団司令部に命令受領に行った折りのことである。軍司令部の兵隊が、「聞いてくださいよ、戦砲隊の班長さん」と、話してくれた事を思い出す。
「作戦司令部は大きな蚊帳の中でマラリア蚊を除けながら、発電機付の携帯電灯が明るく光っている。密林生活の将兵は暗くなれば夜、明るくなれば昼間だと感じるコウモリみたいな生活をしていた。その司令部の一室の目もくらむような明るい電灯の下で、大きな机の前に軍指令官が緊張した顔面で何か図面を前に説明していた。「ベタ金」の中将に対して金筋に星二個の中佐が、どっちが上官か理解に苦しむ様な作戦会議であった。並みいる各師団長もくちをはさむ機会も無く、内地派遣の参謀が一方的に話を進めている光景であった。これが作戦の神様といわれた辻政信中佐であった。ニューギニアの現地作戦指導にきたとのふれ込みである。
 司令部の炊事当番兵が我々がニューギニアに上陸以来一度も口にしたことの無い生味噌や、本物の醬油や砂糖調味料をたっぷり使った最高のメニューを指示された。飯も内地の一等米を使っての調理、手がふるえて大変気を遣っての夕食だったそうです。」
という。当方は「シオ」を出発する時、調味料として粉味噌や粉醬油、缶詰にわずかな米が支給されただけであった。軍司令部の給与が他の兵隊より豊富なことは、司令部付きの彼等も十分認めている。それにしても現地食のヤシの芽やタビオカ芋やタロー芋、かぼちゃの葉にかんしょの茎と兵隊全員で現地食の調達をやり、お偉いさんの食卓を賄ってきたのだ。あまりにも、その食卓の豪勢さに度肝を抜かれたらしい。そのおこぼれをもらうことに一生懸命だったそうだ。
「何ヵ月振りかに日の丸を付けた飛行機を見掛けたと思ったら、あの飛行機が彼の専用機だったのかとようやく合点がいけました。」ともいっていた。
 専用機で自分の食料や着替えの被服まで十分積み込んでのニューギニア入りだったのである。内地の作戦主任参謀ともなれば、軍司令官とてひかがみを伸ばさなければならない、軍隊とは不思議な世界である。
 あたりの将兵もこんな参謀の訪問に刺激されたのか、何となく騒然となってきた。重要な作戦会議かも知れない。しかし、ニューギニアにおける作戦行動を知り尽くしているはずの参謀が、現地将兵の飢餓地獄で苦しんでいる時、こんな豪華な大名旅行はいかがなものであろう。将兵の苦労を知ってか知らずか?
 専用機の片隅に、マラリアの特効薬のキニーネか解熱用のアスピリン、消毒用のアカチンとか患者に対する思いやりの品を積んで来てほしかった。
 翌日から、病気を理由に現地食の収集に行く兵隊の数がめっきり少なくなってきた。白い内地産米を腹いっぱい食べている人のうわさを聞けば、単純な兵隊たちにとっては無理からぬ事であった。
 工兵隊の隊長が昨夜のお偉いさんと、立ち話をしているのを、通り掛った兵隊が小耳にはさんだ。「みんな若くて頼もしい兵隊だな。わしが来たからには、ニューギニアの兵隊は一兵たりとも殺さんぞ。安心せい」と豪語して、ゆったりと専用機でご帰還されたとのことである。栄養失調で苦しみがい骨みたいな兵隊を見て、若い頼もしい兵隊に見えることは、我々の常識では考えられなかった。彼の掛けている眼鏡は狂っているのか、理解に苦しむばかりだ。
 この時すでにニューギニアは軍中央より見捨てられたのである。安達中将指揮下の第十八軍は、新設の第二方面軍隷下に転属されたのである。それを伝達するだけの大名旅行であったとは、後日判明したことである。
 戦場の孤児第十八軍が遥か遠いセレベスにある第二方面軍に編入されたからといって援助があるわけではない。ただ、いわゆる命令系統が書類の整理上変更されたに過ぎないのだ。第十八軍は第二方面軍の指令により、マダンからウエワク集結を命ぜられたのであった。

ラム河セピック
 ラバウルに待機駐留していた時、新兵器? として考え出されたのが背負子なるもので、その後の作戦行動に大変寄与した。重宝この上もなく愛用された。日本では山間の農村で、物を運搬する道具として常用されていた。戦前、小学校の校庭にはたいてい二宮金次郎が薪を背負って本を読んでいる銅像が見受けられた。その薪をかつぐ道具、それが背負子である。ものを運ぶのにこんなに都合のよい道具があり、またこんなにお世話になると思っていなかった。ラバウルから迫撃砲の分解辟力搬送の時にも、こんなに役立つものは無かった。
 自分の身長、肩幅に合せ作り上げる。戦砲隊の兵隊は砲の搬送に段列の兵は弾薬、それに各人の私物、装具、水筒、飯盒にいたるまで、総てのものを結着し行動出来たのである。
 小休止になると仗をつかえにして休む。出発となれば、背負ベルトに腕を通して立ち上がるだけである。しかし体力の低下にともない、立ち上がる時が一番苦労であった。迫撃砲の分解搬送に、これが無かったなら、迫撃砲は無用の長物であったかも知れない。峨々たる峻険も魔の河川も、これ無くしては総ての戦闘が不可能だったろう。ハンサの手前マヌンボで、ある時我々に海岸線の警備の仕に当たれと分哨の命令が出された。この進路はハンサへの転進路になっており重要地点である。任務もしたがって重かった。一週間勤務の各部隊持ち回りということもあって、第三中隊長は私にその勤務を命ぜられた。
 敵は我々の転進路を察知したのか、連日のようにボーイングB29が一トン爆弾を投下し、転進路を爆破し大穴を開けていった。照準を間違えて海中に投下する時もある。轟音ともに水柱が四、五十メートルも噴き上がる。ニューギニアは魚の宝庫であり、無数の魚が海面が白くなる程腹を上にして浮き上がってくる。しかし爆撃のあとから必ずノースアメリカンやコンソリデイデットの銃撃や機関砲の攻撃があり、海中の魚を拾うのも実に命掛けの大仕事であった。
 動物性たんぱく質の不足からくる栄養失調には、この魚が何よりの栄養源である。捕れる時に捕っておかなくてはと、危険もかえりみず懸命の魚拾いに精を出す。背負子に付け切れない程魚を背負っても、炎天下四十度の日陰のない海岸道、四、五時間もすればみな腐ってしまう。とても食べられるものではない。爆風にやられた魚は煮ると全部身が離れ、ゴチャゴチャになったクレープみたいなものだった。炎天下の日中の行軍時、夕食の炊餐の取り出してみると、それはもう食べられたものではない。分かり切ったことであるのに、こと食料となると本能といおうか我れながら哀れというしかなかった。
 さて、マヌンボの海岸線警備の分哨勤務は、A地点からB地点まで三キロの動哨が任務だった。敵機の襲来、海上からの艦船の攻撃に対する警戒が主任務で、隊員構成は一個分隊で十五名、古参下士官を長として編成されてた。
 我々が上番した当日は、敵飛行機の来襲もなく静かな一日であった。
 やがて西の空が茜色に焼け、夜のとばりが下り暗くなってきた。夜は敵高速魚雷艇の出現に備えて、二名復動哨にした。そして一時間半勤務の四交替の勤務規定に基いて行ってきた分哨勤務も後一日、昼間は対空監視、夜は敵高速魚雷艇の監視、昼夜ともたいした敵の攻撃のきざしも見せないままに最後の夜を迎えた。さあ今晩限りだ、事故のないよう気を引き締めて勤務に着いてくれと厳重注意を与えて、復動哨を送り出した。
 分哨の守則に基き、分哨長の私も仮眠に就くことにした。月の美しい夜だった。南十字星も光り輝きこれが戦場の海かと思われる程金波銀波が砂浜に打ち寄せていた。故郷の事などを思いながらしばらくまどろんだとき、「分哨長分哨長」と復動哨の一人に呼び起こされた。すわなに事かと飛び起きると、「西の海岸に異様な音が聞こえます。魚雷艇や上陸用舟艇で敵上陸かも知れません」と、顔色を変えて報告する。慌てて仮眠中の全員を起こし、問題の地点まで急行してみる。二人の動哨が指示す方向を注意して見ると、どうやら敵の上陸用選定ではなさそうだ。
 月の明かりをたよりに小銃の安全装置をはずし、銃を腰だめにして音の方向に近寄ってみた。黒々とした異様な物体がうごめいているのだけは確認できた。さて何者かと、恐る恐る近寄っていくと、異様な物体は砂浜に上陸して来た。水辺から二、三十メートルの所に来ると前進を止め、何やら穴でも掘っているような仕ぐさをしている。「大亀でないか?」ひれ足で一生懸命穴を掘り終わり、相変らず「グウ、グウ」と鳴き声を出しながら何かをしている。「おお、亀の産卵だ」気が付いた兵隊が叫んだので一同一安心。やれ、やれと思いながら偉大なる亀の産卵を見守ることにして、高みの見物としゃれこんだ。
 一きわ大きく呻き声を挙げて産卵は終わったらしい、足ひれで砂をかけている。気の毒に亀は、苦労して砂浜まで産卵の場を探しに来て、最悪の状態の兵隊に発見され、捕殺されようとしていた。海中に帰らないうちに、なんとか捕獲しなければならないと、B兵長の提案で亀をひっくり返すことにした。全員で亀の片側に回り手を掛けると、「やれ」の合図で亀を持ち上げ裏返しにすることが出来た。ベッコウガメの百キロくらいの大物である。ニューギニア近海にベッコウガメが生息してることは聞いていたが、こんな大物となると少し気味悪かった。
 亀は星天井をみせられ、四足をばたばたしていたが起き上がることは出来ない。かわいそうだが栄養失調の日本兵に見つかったのが運のつきとあきらめて、おれたちの体内に入り弱っている我々を助けてくれと、勝手な理屈をつけて亀の首に帯剣を突き刺した。鮮血が噴出する。数回くり返し、ようやく刺殺した。この間二十分は要したであろう。
 亀の卵は物凄い量だった。海上魚雷艇視哨が任務を忘れて、オムレツや卵焼きにして食べるは食べるは、よくもまあ胃袋の中に積め込めるものとあきれるやら感心するやらであった。肉は首からメスを入れて肉を切り出し、焼いて調味料の粉醬油で食べたが美味この上なしだった。この天からの恵みは、我々にとって生涯忘れることの出来ない、感激の一夜にもなった。もうこれでいつ死のうと悔いはないとみんな冗談のようにいい合ったが、それほどに満たされた思いだった。
 飯盒の蓋にコプラ油で焼いた卵焼は、明日の朝食の分と大事にしまって置く兵隊もあり、明日、分哨勤務を下番したら大至急中隊に追付き、戦友に食べさせて元気を回復させてやろうと、夜明けまで亀の調理に勤務も忘れて忙しかった。亀の甲らは全部脂肪であると聞いていたので、携帯燃料用にと持てるだけ切り取って背負子につけた。
 幸いにして、敵魚雷艇も我に憐憫の情を感じたか、沖合に姿を見せなかった。午前十時、分哨勤務を工兵隊の上番者に申し送りして、我々は勤務から離れた。
 上番の分哨要員に、我々が食べ残した卵、亀肉一切を進呈したことはいうまでもない。彼らの喜びようはいいようもないほどで、涙を流さんばかりに、さっそく亀料理に取りかかったのをみても十分理解できた。
 産卵に上陸して来た母亀を切り殺し、その上子孫の卵まで取り上げて食った非人間的な行為に、後ろめたさを感じないでもなかったが、中隊主力に一刻も早く追い付き、亀のみやげを腐らせないうちに戦友へと、海岸道をハンサに向かって急進した。良いことは重なるもので飛行機の空襲も全くなく、久方振りの満腹に歩足も早く、目指す佐藤隊に合流出来たのは夕方頃であった。
 佐藤大尉には分哨勤務完了交替の申告をして、亀肉と甲らを差し出し、大変感謝された。その夜の夕食はどこでも亀肉料理で、敵さん給与に舌鼓を打つのどかな一刻であった。それにしても明と暗。亀の肉を手に入れたばっかりに、一刻も早く中隊主力に追尾せんと、無理を重ねて休む時間もおしんで部隊に合流し、戦友と楽しい夕食も出来たが、あと一日遅くハンサに到着していたら前述のあのハンサの大艦砲射撃に会わなくて済んだのだった。分哨帰りの兵隊の中からの戦死者、負傷者を出さないで済んだものをと、一人胸の中で悩んでいた時、私の立場を理解してくれてか佐藤大尉は、「気にするな、これが戦場だよ」と、肩をたたいて励ましてくださった。
 戦況不利な中に、部下の心理を解して慰めてくれる上官こそ、真に頼れる上官であると、私は隊長の人格の高さと、卓越した統率力に改めて信頼の度を深めたのだった。

ラム、セピックの大河
 セピック河はニューギニア第一の大河で、その河口はラム河とあわせ百キロ以上の湿原を擁し、ミズサゴ、マングローブなどの湿地潅木が密生している。この湿地帯は道路らしい道路は皆無である。
 熊本の独立工兵大隊が道路構築に当たり、転進道の先行を務めて通過部隊の道案内をしてくれ、時には人橋にもなってくれた。工兵隊は湿地帯に胸まで泥水に漬りながら、肩の上に丸太を渡し、通過して行く転進兵を全身で支えての重労働である。兵科にはそれぞれの主任務が命ぜられてある。与えられた任務とはいえ、ふんどし一本になって水中に漬り、肩はきっと重みで腫れ上がっているだろう。それでも、「陸軍の兵隊さん、しっかり頼んだよ」と病兵を下から励まして、早く行けよと泥によごれた顔で笑顔を投げ上げてくれる。
 「工兵さんよ、足で踏みつけて済まんなあ!」
 と感謝をすると、下から
 「歩兵さんよ、薩摩隼人を知らんか」
 と元気な声がはね返ってくる。これこそ真の戦友愛に外ならないと、勇気づけられるのである。
 セピック河を渡河するには従来甲・乙・丙路があり、ワンガンからシンガリガリまで「大発」でのぼる甲路と、別に丙路としてワンガンから「大発」で河口に下ってコープに出る主としての減少から、甲路・丙路は中止され、専ら乙路即ちワンガンから山間道を迂回してシンガリに出る方法をとることになった。今我々が進もうとする乙路は全く新しいもので、今までに通った経験部隊が無いので、前記熊本独立工兵が道路構築と先導を命ぜられた。
 今まではワンガン、マリエンブルク、コープなどには、糧秣補給地があったそうだが、今ではそんなものは無かった。その上、この重湿地帯は乾燥地が全く無い。湿原で、炊餐も出来ない。焚くべき枯木も草も無い。渇きをいやす清水さえ無く、河の中に居ながら飲む水すら無いのである。
 将兵は一日中腰まで水に浸りながら徒渉し、夜になって浅瀬にはい上がり、潅木にすがりつくようにして一日の疲労をいやそうとすると、物凄い蚊である。しかも羽に縞のあるマラリア蚊で、天幕で頭や体をすっかり包んでも、まだそのすき間から入り込んで来る。眠ったのか眠れないのか、ウトウトとして一夜を明かす。
 乾期ならまだしも、今は折あしく雨季でもあったので一層苦労させられた。水に漬かり通しで体がふやけ、濡れた被服も乾す暇もなく、マラリアによる二日熱、三日熱、テング熱での高熱で身体は衰弱し、加えて下痢や熱帯疥痒に悩まされた。
 道路状況が悪化し、工兵隊にも協力の限度があった。もうここまで来ると、彼等の道標も無くなっていた。道らしい道は無く、前に通って行った兵隊の跡が土で濁っているところを伝って進む。濁り跡を見失ってジャングルに迷い込んだら、もう死、しかなかったのである。
 幾千年もの間人跡未踏の土地で、何がどうなっているのか分からない。原住民さえ恐れて近寄らないこの大湿原地帯。死神に導かれているかのようで、いくら進んでもやがて待っているものは死以外にないように思えてきた。それでも最後まで生きる努力をしてていた生きたいという人間本来の願望を捨て切ることは出来ない。己の手で自決する程の勇気もない。ただ痴呆のように、黙々と歩くだけであった。死者が出ても埋葬してやる場所もない、まさに水漬く屍である。
 所々にある大木の根方にだけ、水気が無い場所がある。これはと思って休もうとすると、たいていそんな場所には先客があった。異様な臭い、死体が転っているのである。ちょっと小高い湿地でない所には、先行した部隊が作ったヤシの葉をのせた、雨露をしのげる場所がある。しかしそこにも多数の死者がいた。衣服は着ていても腐乱している者、また腐乱寸前の者、死んで間もない者。戦友が付き添って見守っているが、もはやかすかな呼吸をしているだけの者もいた。そうした者たちは、たいてい靴や天幕など目ぼしいものはどれもこれも取りはずされており、誰かが持って行ってしまったらしく見当たらなかった。
 支給された糧秣は食いつくし、農園とて、あるはずも無かった。もちろん付近にカナカの集落があろうはずも無い湿地帯である。非常食のタロー芋、ヤム芋とて残る量は僅かである。藤づるの新芽も食べられる事を知った。岩塩をなめながらジャングル草も食べた。精も根も使い果たして喜怒哀楽の表情も消え失せ、生きた屍の如く精神的にも肉体的にも打ちのめされた、浮浪者の集団となっていた。
 セピックの本流だけは、工兵隊の方形舟にエンジンを付けた渡し船に乗り、渡河することができた。これとて敵飛行機の跳梁する昼間に二、三キロの渡河は不可能なので、薄暮い月明りの夜に限定されていた。
 乗船場には多くの将兵が乗船を待っていた。一名でも多く乗船出来るように、みんな立ったままである。それでも輸送能力は一回に五十名ほどで、定員オーバーは厳重にチェックして岸を離れた。聞くところによると、この船も明日一日だけで引き上げるとのことである。「お前達は果報者だ」といっていた。それにしても、明後日以降この乗船場に来て船が無かったなら、この大河をどうやって渡るのだろう、その事が心配であった。
 月夜に乗じての隠密行動中、私たちは凄い光景に遭遇した。長さ二、三百メートル幅三、四十メートルもある大きな島というか、いやジャングルの一部を切り取ったような巨大な代物が流されてくるのを月明りの中に見た。こんなものが流れてくる水原地帯はいったいどうなっているのか。山が崩れ、ジャングルが千切れて奔流に巻き込まれて行く。そんな天地創造期のような凄まじい光景が何百キロかの上流に出現したのではないかと思われた。ニューギニアという国は実に我々の想像を超えた気の遠くなるような事ばかりで、原始時代の国を思わせる。
 セピック本流は、方形舟でつつがなく渡河できたが、下船させられたそれから先がまた大変であった。迫撃砲中隊はこうした最悪の状態の中でも、中隊としての軍紀統卒は僅かに保たれていた。しかしこれとて時間の問題ではないかと、中隊長は懸念していた。栄養失調や下痢患者は日増に多くなり、隊列も縦長の長さが増々長くなってきた。ウエワクまではなんとしてもたどり着こう、弱兵にも出来るだけ救いの手段を施した。
 主流は渡河したけれど、重湿地帯はまだ抜け切れない。疲労の極に達しようとしていた。あと幾日の命か、夜も昼も無い夢遊病者の如き飢餓集団の、情けない日本帝国軍人なれの果てかとの思いを強くする。軍司令官閣下は高級参謀閣下を帯同、潜水艦でウエワクに行っているはずである。この現状をなんと見るだろう。
 単独行動する兵隊が急に行方不明になるという話を他部隊の兵隊が話していた。また聞きたくも見たくもない恐ろしいことが想像される。生死の境界線を必死で乗り切らんとする意志の強弱により、運命は大きく左右されるのだ。
 病兵が帯剣一本でヤシの木を切り倒そうと、半分も切れないまま哀れにもその根元で絶命している。切り倒したところで、他の兵隊にすべて持ち去られて何も残らなかったろうに。この兵隊にも一日一日が地獄であったろう。火縄の火を大きくしてみると、苦しまぎれに水でも飲もうとしたのか、上半身を乗り出し両手をぶら下げたままの死体であった。太い木の枝に鳥の巣のようなものを作り、体を紐で縛りつけ事切れている兵隊もあった。
 余談であるが、ニューギニア慰霊巡拝に行った折、マリエンベルグの部落のボーイに聞いた話である。戦後三十年くらい過ぎたある日、このボーイが湿地帯の樹海の中に豚を追って入りこんだ時、何気なく天井を見上げたら、地上十余メートルの大木の枝の間に、日本軍人だろう白骨の遺体を発見、神の呪いかと大変驚いたと悲しそうに話してくれた。死亡時は一メートルくらいの高さだったろうに、南国のジャングルの木の成長は早い。十数メートルの天空で、内地帰還を望んで故郷の空を振り仰ぎ帰還を待っていたのに、誰も迎えに来てくれなかった。そのボーイは、日本人は言行不一致でマスキーだと声を荒げて怒っていた。彼らは純情である、無理からぬことである。彼は日本兵の呪い、怨念を恐れて土中深く埋めてくれたという。
 ウエワクに着けば何とかなるとの希望にすがって、この魔の銃湿地帯を渡ったのであるが、第十八軍の将兵の損耗は千余名を超すものと推定されている。行進して行く道々に、まるでズラリと並ぶようにして倒れている様を見る時、あるいは千余名どころではないおびただしい数の犠牲者ではなかったか。
 悲運は放浪する部隊だけでは無かった。この千キロにもおよぶ死の放浪をセピックの大河を避けて通れた軍司令部関係者と各師団司令部関係の高級軍人たち、だが階級的な当然の権利にも不運はあった。発動艇でマダンを脱出し、暗夜密かに沿岸を伝い、ウエワクに向かっていた第二十師団長片桐茂中将以下参謀長、幕僚など幹部全員は、「大発殺し」と異名のある敵高速魚雷艇に発見されたのである。応戦できる攻撃装備のない悲しさ、発動艇もろとも沈没、全員戦死した。
 度重なる不運は五十一師団だけでなく、第二十師団にしてみても、師団長青木重誠中将に続いて、片桐中将の戦死である。その上師団を動かす司令部の首脳部までも戦死した。残った者は戦うすべもない、半死半生で陸上を放浪する胴体だけの軍隊となった。
 第十八軍がキアリとマダンを脱出した時の総勢は、約一万三千名といわれていたが、浮浪者のような姿も哀れな強い生命力だけで支えられた将兵が戦わずして巨峰、密林、大河に没したのである。
 折も折、敵は大挙ホーランジアとアイタベの二ヵ所、約三個師団の兵力をもって突如上陸を敢行してきたのである。時に昭和十九年四月二十二日であった。
 かくて第十八軍は、再び第二方面と事実上連絡が途絶するにいたり、ニューギニアの中部に孤立の状態となった。もはや夜間の連絡機はおろか、海軍の潜水艦からも見放されることになり、悲劇的な宿命がまた一段と大きく将兵にのしかかってきた。

パプア族との出会い
 思えば昭和十八年八月二十三日、ニューギニア島フインシュハーヘンに上陸してから、昭和二十一年一月十一日ムシュ島からの帰還船「鹿島」に乗船内地帰還まで、指折り数えて実に四ヵ年、自分の青春の貴重な一時期を過ごしたことになる。この島は我が国の二倍に近い広大な国土を有したが、人口の密度は希薄で、戦前の神戸市の人口にも満たない程であった。もちろん正確な人口調査など出来る国柄では無かったので、その数も不確実かも知れないが、どこの部落にも子供の数が少なかったのを見ても人口の希薄さが想像できた。
 海岸近くに住むカナカ族、峻険な山岳地帯で生活しているパプア族と種族は多かったが、セピック住民を含んだカナカ族が、一番我々と接する機会が多かった。このカナカ族は性質温和で、白人にも接していたので、知性も教養も兼ね備えていた。
 パプア族は生来闘争を好む部族で、山岳地帯に集落を構え、戦闘的で攻撃的な性格を持っていた。人狩りなどといって、隣りの集落を襲撃して集落ごと根こそぎ家畜から女から子供まで戦利品として取ってきたと、集落の年老いたボーイが、昔の武勇談として話してくれた。
 戦いに破れた集落のボーイは、石の上にも三年と、武術と心身を鍛錬して、また勝った集落を急襲する。前回持ち去られた豚、犬、女から子供まで戦利品として取りもどし、敵の集落に火を掛ける。台上で連日連夜の大シンシンを催し、踊り狂って夜を明かす。このように単純な彼らではあったが、身体は至って強く、足音を立てることも無く野豚に近寄り、これを捕獲することも彼らの自慢話の一つである。ボーイは即戦力、即戦闘要員であった。集落入口に首狩りをした時にとった首が飾ってある。しかし根は陽気な種族である。
 カナカ族との付き合いは長かった。幾度か現地食を提供してもらい、餓死をまぬがれることが出来たのも特筆しなければならない。
 彼らは白人に酷使されていた。アングロサクソンは原住民たちを鞭でしごき、ヤシの植林やコプラの採取、コーヒー農園の管理、ゴム林のゴム液の集汁と、あらゆる重労働を強いた。わずかな給料は支払うが、くれておいて後から税金で巻き上げる。ラプラップ一枚買うほどの給料も残らないという。彼らとてボーイのプライドが有る。白人のワイフの下着まで洗わされるのには堪忍袋の尾が切れそうだったというが、鞭とピストルでは反攻することもできず、泣き寝入りであった。
 ニューギニアは常夏の国である。防寒としての衣服は必要無かった。ボーイはラプラップといって原色の布を好んで腰に巻いていた。メリー(女性)はミズサゴの繊維を細くひいて腰蓑としていた。パプア族の人たちの中には、男女とも生れてきた時のままの姿で秘所丸出しの集落もあった。しかし私たちがメリーの秘所に注目していると、少しは恥じらいを感じるらしく、目線を落してしまう。
 おかしな話だけれど、ここの女性には恥毛が無い、しかし生えないのではない。風通しの良い集落の広場で三、四人の女性が、ガヤガヤと話をしながら竹べらで一生懸命秘所の毛を剃っているのを見た。いや剃るのではなく、すりへらしているのである。髪を剃るなら話は分かるがさぞや痛かろうと思いきや、気持ち良さそうにゴリゴリやっている。頭髪もこの調子で青光りのする坊主頭に仕立て、美人ぶりを競うのである。この手入れはボーイが見ることを許されない風習になっており、男子禁制の聖域である。
 彼らに共通していえることは競争意識がないことである。常夏の国で国土が広い。人口も少ない、無理をしてパプア族のように隣人を折衝する必要は無い。(註 最近のパプア族も闘争人種から共栄共存の温健主義に変ってきた)
 熱帯のここでは植物の生長が早い。果実も良く実り、天然の食料には全く事欠かない。いつも必要に応じて採取出来る。豚や鳥も弓で撃つことが出来た。
 また自分の必要な食料だけ農園で作れば良かった。これとても焼畑農法である。保存食の貯蔵は全く必要が無いのである。強いてあるといえば葉煙草の製造ぐらいのものだろう。
 日中戦争では、軍の参謀たちがよく口にした「現地物資の調達、自活」なる言葉が流行語のように語られ、また実際にこれを強行し、その食料を得て戦い抜いてきた。
 軍の首脳はこれに味を占めたのでもなかろうが、何の研究も調査も無く、特に現地の事情や特異性も考慮に入れていなかった。敵の制空制海権下の輸送船舶不足を大義名分にして、ニューギニアへの物資の補充も考えなかった。現地物資の調達に総てを求めたその愚策が、ニューギニアに十幾万余の将兵を世界戦史にかつてみたこともない飢餓地獄に追い込んだのである。非人道的な行為と世界のひんしゅくを買った人肉喫食問題、食料不足からくる餓死者の続出。この責任は誰が負うべきか、無能無策の軍首脳にある事は明白なる事実である。
 十五万余の将兵の全軍の現地食調達があればこそ、終戦時一万数千人の帰還者が国土を踏むことができたのだと思う時、パプア、カナカ両種族に何をもって報いたらよいか。日本国民よ、黙して語ることもできないだろう。遺族の皆様、皆さんの親兄弟、肉親の方々、彼ら現地人の日本兵に対する食料進呈があればこそ、一刻、腹を満たした時があった事を忘れないでいただきたいのである。
 ニューブリテン島ラバウルに待機駐留していた時私は、近き日にニューギニアに進駐することを予想して、励めて現地語の勉強をした。かつて中国大陸に転戦警備の任に当たっていた折に、中国語を話すことが出来たので、中国人とのコミュニケーションを保つ上に大変役立った。勝者とか敗者の関係でなく、対等の立場で話し合う機会を得て、中国の小児と大変仲良しになって、駐留中楽しく過ごした経験を思い出し、ビシン語の単語(註 英語もあった)を作業の合間に、日曜日には外出もしないで独学を続けた。半年余の間に、ひと通り原住民との会話が出来るまでになった。
 パプア族の間には集落語もあり、集落によっては言葉はピシン語が基本となっていたようで、身ぶり手ぶりでどうやら意志が通じ合ったのは有難かった。食料事情が悪く、総て現地物資によって将兵の露命を継ぎ止め得たのも、言葉が通じ合うことで大変役立った。今、当時を思い出し、記憶している分だけでも記述することにした。


ピシン語一覧表


 第三中隊では、東京帝大出身の乙種幹部候補生の金木軍曹が英語が堪能で、英語を主体にして原住民と会話をしていた。そしてそれなりに物資の収集にも実績をあげ、中隊では必要な存在になっていた。
 原住民は、白人に酷使され搾取されていたので彼らを白い悪魔と罵っていた。そこで私は、「日本人は、白人と違って肌の色は褐色で、色がついている。ホラ見ろよ、いくら体をかいても白くならないだろう。友だちなんだよ」そして、「日本の兵隊は海を渡ってニューギニアに来て、白人と戦っているのだ。カナカも兵隊に力を貸してくれ。銃と弾丸でヤンキーと戦争をしているのだ。日本から遠くて食料が来ない、病気になって死ぬ外ないのだ。私もあなたも、兄弟で友だちなんだ。戦争は兵隊がするから、カナカは山芋やサゴ澱粉やかんしょを持ってきてくれ。日本の兵隊が勝った時には腰巻も斧、槍も全部与えるから、働いて協力してくれ。」と、心をこめて協力を頼んだのである。こうしてカナカの人々は自分たちの食料を、気持ちよく日本軍に差し出してくれた。
 人口は百万余の島に、十五万もの日本兵が上陸して来たのである。六人家族の家に居候が一人割り込んできたようなものである。その上、戦争とは何の関係も無い平和な集落に爆弾を落とされ、農園もヤシ林も根こそぎ丸坊主にされて、なお日本軍に協力して食料提供をしてくれたのが、カナカの人たちだった。
 人食人種、どう猛な原始人、石器時代そのままの生活とさげすみの目で人は見るかも知れない。しかし彼らの現実の暮らし、その生きざまを見たら、彼らこそこの地球上で最高の幸福を勝ち得た人たちと評価せざるを得ないだろう。
 パプアやカナカの人たちは、前述したけれど勤労をあまり好ましい。食べて生活して行ければ十分なので、必要以外に働かない。常に集落の集会所にたむろして遊んでばかりいる。マロロハウスにはいつも五、六人の働き盛りのボーイが居て、煙草を吸い屈託のない無表情な顔をしている。
 薬籠に似た容器の中の白い粉を出して、ビンロージュの実とその白い粉末を一緒に葉っぱに包み、かんでいるのである。ビンロージュの木は高さ三メートルくらいで、木の上部にヤシの木と同じかっこうの葉笠を付け、その下方にウズラの卵ぐらいの実をつける。
 これをかんでいると、実に気分が壮快になると彼らはいう。多分に薄いアルコール分があるのではないだろうか。ジャパンキャプテン食べてみるかといわれても、とても食べる気はしない。ボーイたちが地面に吐くつばが真紅で、血でも吐いているようで気味悪かった。口の回りが真紅に染まり、人食人種と見られても無理からぬ形相である。
 彼らは火を大切にする。火の神は彼らに幸いを与えていると常にいっていた。マロロハウスの中央に、直径二十五センチくらいの木を三本組み合わせ、常に炭の「おき火」のようにして大切に確保しいた。
 年若いボーイたちは話題が多い。私もこれら若いボーイが好きだった。体力回復のため集落に一定期間駐留する時もあった。時間が許す限り彼らの中に入って片言のピシン語で話す機会を作った。若いボーイたちの話はやはり女性の事に一番関心を持っているとのことである。これは万国共通であって中国に進駐していた時も私たちの間ではクーニャンの話で持ち切りであった。
 Aの集落のメリーはどうの、Dキャプテンのワイフはお腹が大きくなったとか、Cボーイがガーデンハウスで喧嘩してワイフが泣きながら帰って来たとか。そして最後は必ずセックスの話である。体位がどうのこうのと最高潮になると身ぶり手ぶりで解説して聞かせる。そして最後に聞かれることは、日本娘の事であり、キャプテンはワイフがいるかいないか、夜の営みについて根掘り葉掘り聞かれる。彼らに真面目に説明してやることも出来ず、適当に話をそらすが彼らはなかなかそれを許さない。
 大キャプテンはワイフを五、六人は持っている。多い者は十人以上も持っている酋長もいるという。大酋長ともなれば六十歳を過ぎていよう。よくも愛情を注げるものとその精力絶倫に驚いたら、女房は彼らの社会では働き手であり、財産なのだそうだ。したがって大きなハウスの中に、数名の女房たちが同居しているのが当たり前で、女房たちも割り切っている。十名の女房が居れば十個の炊事場を持ち、十人のワイフが全部夕食の準備をするのだという。
 キャプテンが夕食のかまどの前に座り夕食を食べる。そのワイフが夜のお相手をすることになると、ガーデンハウスに急ぐのである。(ガーデンハウスとは日本のモーテルのようなもの)
 彼らの社会の仕組みは、なかなか理解しにくい。翌朝ともなれば十名のワイフが連れ立って農園の管理。サゴヤシ澱粉の採取、川での魚獲りとそれはそれは働き者である。
 財産の無い男が、女房をめとるのは大変である。大金を出さなければならない。豚のキバと貝で作ったリング、この二点が重要な結納品であり、この二点は絶対必要条件であった。
 なまけ者のボーイたちは普通世間並みの結納品が調達できないので、金額の安い子供を対象に結婚相手を選ぶのである。笑えぬ話だが「オムツ付」のワイフを入手して、成人するのを待つという。気が遠くなるような話であるが、南国の女性は早熟で十歳を過ぎると初潮をみ、夜のお相手もできるというから案外、生むが易しかも知れない。
 このボーイとの別れの日が来た。彼の手を握り
「ユーハリアップ」
「ビックブスブス」
「ミーフレンド」
「ワイフ」
 お前の花嫁さんに美しいラプラップを進呈するよと別れた。

ボーイと遊ぶ
 セピック地帯で出会ったボーイも、底抜けの明るさを持っていた。大きなマロロハウスも、サゴヤシの葉と葉柄で飾られており立派であった。湿地帯の中では小高い風通しの良い場所を選定して建設したもので、釘一本も使用していない見事なものだった。樹皮と藤づるの骨組みだが、堂々たるもので、日本の山村の小学校の体育館ぐらいの立派なものだった。
 ご他聞にもれず、ここでも毎日ボーイが屯している。常時八名を下ることはないようである。
 今日は集落の協同作業の魚捕りがあり、我々はキャプテンの厳令で、今日はマロロハウスから出られない。といって十二、三名のボーイが、夕方には食べられる魚を期待して竹を用意していた。「マンボウ焼」といって竹筒の中に魚を入れ蒸し焼きにするのである。竹の中の油が沁み出て、見事に焼魚が出来る。時折食べさせてもらったが、その発想と知恵に感心させられた。
 男子禁制の魚捕りとは、いかなる方法でやるのか、非常に興味をもった。谷川の流れのゆるやかな場所を選んで、上流と下流を石でせき止め、腰蓑を取りはずした女房たち二、三十名で川の中をかきまわす。段々強くかきまわしていくと川水全体が泥水でにごり魚は酸素不足になり、酸素を求めて浮上する。苦しくなった魚が浮き上がるのを待って手づかみで捕るのである。彼女たちは魚の集まる魚場を知っているので、いつも大漁間違いなしである。原始的漁法ではあったが、いかにも彼女たちらしい楽し気ともいえる魚捕りではあった。捕った魚は人数によって平等に女房の長が分配し、各自持ち帰って食膳に供するのであった。
 さて、その男子禁制の魚捕りの現場を、今日は彼らに見せてやろうかと誘いをかけてみたが、案の定誰も見るとはいわなかった。ラプラップをとった裸身を見たいと思う彼らに好奇心がないわけがなかった。女房たちにみつかったりキャプテンに発見されたら後が恐ろしいということか進んで申し出るボーイは居なかった。「見たく無ければ私だけが見てやる。お前らには絶対見せてやらんぞ」と少々おどして見せた。絶対見たいに違いない、好奇心十分な彼らのことである。頃合いよしと広場突端に立って、敵情観測用の双眼鏡を取り出し焦点を合わせた。川までの距離は約一千メートル、双眼鏡は十分にその性能を発揮する。見えるは見えるは川の中を真黒になるほど、女たちが川の中で荒れ狂っている。実に壮観そのものである。大ストリップショーである。
 しかし男子禁制のこの掟は、なかなか破ることは無理だと思ったので、強引に一人のボーイを引張ってきて双眼鏡を目に当てさせた。ボーイは双眼鏡から顔を離し見るので何も見えない。盛んに両眼をこすっているがかんじんの彼女たちは見えない。同じ事をくり返しているので、双眼鏡を当て直して見せてやる。とたんに「ビッグ」と叫んだ。外のボーイも今度は我先きにと女房やメリーの魚捕りの魚場をみて「ビッグ」と叫んで、双眼鏡で注視していたが宝物の方はどうやら拝観出来なかったようだ。
 誘惑に負けさせた私にも罪の一端はあるが、仲間の掟を破らせた私の責任はいかようにもとるから安心しろ、酋長には絶対口外するなと彼らを安心させた。
 日本の兵隊は、アメリカソルジャーより偉いんだと大喜びだった。いかに裸族とはいっても、集団で腰蓑をはずした女体を見た時、若いボーイの性感を怪しくゆり動かしただろうことは容易に想像できた。以後の現地物資の提出協力は、一段とその量質とも向上したのはいうまでもない。
 戦争さえ無ければ、ニューギニアはこの世のユートピアである。南国といえばヤシ林である。その果実からはサイダーのような果汁が飲めた。コプラの果肉も脂肪分をたっぷり含み、軟らかくて美味この上なしだ。注射液のかわりにこの果汁を注射して、治療用に利用した程に栄養価が高かった。
 パパイア、これも随分と現地物資とし提供してもらった。熟れた実は甘味が強く最高の果物だった。野生に近く、栽培の必要も無く生育していた。青い実は漬物にすると一段とその風味と歯ざわりは格別だった。
 最高の目玉はバナナであった。内地では台湾バナナが祭りの日のたたき売りで出回った。船に乗って来た青いバナナを後熟させて食べるのでは、食味に大きな差がある。
 ニューギニアに来て、バナナの品種の多いのにも驚いた。後熟させて食べる普通のバナナの外に、クッキングバナナがあり、パプアの人たちは焼いたり蒸したりして食べていた。味の方は、かんしょくらいであったが、保存がきいたので兵隊の携行食には大変便利だった。主食にしている山岳地帯のパプアもよく見掛けた。ビープラバナナの実は大きく、赤子の腕くらい大きなもので空腹時でも一本食べ切るには大変だった。
 大人の親指くらいしかないモンキーバナナも珍しい。香りの豊かな品種で風下では百メートル先でもバナナの芳香で、木の位置やその所在が確認できた程である。このバナナも最後には木の芯まで根こそぎ食べてしまった。
 パンの木、この木の実は果肉が熟れると甘いジャム状になり、中に二十個ほどのポクポクした甘い栗そっくりの味で郷愁がそそられた。この木は三、四十メートルもの大木になり頂上の実はもぎ取ることができなかった。未熟のものは焼いて食べたので、日本名、パンの木と命名したのであった。
 その他マンゴー、ドリアン、レモン、コーヒーなど南国の果実は実に豊富であったが、終戦間近にはこれらのカナカ所有の資源は、すっかり日本兵に食い荒らされ、その茎や根さえも残さず食いつくしてしまった。
 現地調達、聞こえはいいけれど代償を支払われるので盗賊である。九死に一生を得て生還した帰還兵のみなさんが一番よく知っている。
 サゴヤシは主としてラム河、セピック河の湿地帯に栽植または自然に群生していた。ココヤシと兄弟みたいなものだが、その成木から多量の澱粉を採取することが出来る。渓流の近くの原木がボーイによって伐採される。メリーたちが大木を二つ割りにして舟床にする。樹幹の外部はやや硬性の皮に被覆され、中味は柔らかい髄質の繊維が詰まっている。この髄質部の繊維をコツコツと叩き砕き、これに水を入れて浸し、もむのである。すると髄質が解けて白色をおびた濁水に変化する。この中に多量のサゴヤシ澱粉があるのである。髄質部をていねいに打ち砕き、水の中に分離流出する作業は非常に根気のいる作業ではある、が、何の不平もいわずメリーたちは日課として就労している。何回となく水に晒してはアクを水に流し、白色の半乾の澱粉を夕方部落に持ち帰る。乾燥して保存しておるのも見たけれど、乾燥したものは食味は落ちた。
 原住民は土製の鍋で、日本のくず湯のかたいようなタンニュームを主食としていた。乾燥した澱粉は焼いてパンを作って食べたが、原住民の常食タンニュームはあまり口に合わなかった。日本人に適した料理は、サクサクウドンが最高だった。
 私はこのウドンによって一年有余、軍からの糧秣の無配の時露命をつないで来たといっても過言ではない。この事は私以外の在ニューギニアの将兵は多少の差はあれ助けられ、救われた体験を持ったことだろう。
 木の根に芋の付くタビオカがある。ニューギニアのどこにでもよく見られる植物であり、焼いて食べるとサツマ芋のようで常食としては最高であった。これを焼いたものを背負子につけ転進中、後列の兵隊に失敬されたことも度々あった。
 タロー芋は青木太郎という人が作ったとかいって、タロー芋の名をつけていった内地の里芋を大きくした化け物みたいな代物で、芋の子は着生せず親株だけを食べたがしぶが強く、何回も何回もゆでてアク抜きをしなければ口に入ったものではなかった。現地食が無い時はこんなものでも餓死するよりもと思って、無理をして兵隊は食べていた。
 ヤシ林の中に野生のかぼちゃが群生していた。果実はめったに見られなかったけれど、葉先の新芽は大変重宝がられ、海岸のヤシ林の中を血眼になって探し回ったもので、思い出は深い。
ジャングルの中のジャングル草、海辺のヒデリ草、常夏なので四季が無く一年中これ等の果実、野菜、野草などの自然の恵みが、いかに多くの将兵の露命をつないでくれたか。
 また欠くことのできないのが、動物性の蛋白資源である。ニューギニアには数多くの野生動物が山野に棲息していた。野豚、野鶏、極彩色の極楽鳥、オーム、海岸や河川では魚も獲れた。
 ダチョウに似た大物の鳥がおり、首から足の先まで二メートル余もあり、その肉は三十キロ以上のものがざらだった。脂肪も二十リットルも有って油のいため物、テンプラには最高の脂肪であり、将兵には垂涎のたねであった。しかしその数は少なく、その上、足が飛びっ切り速く百メートル走るのに十秒を要しないという速さ。脚力が強く、飛行機の方向舵を動かすワイヤーで罠を造って仕掛ても、これを切って逃げてしまう。小銃で首を撃っても、二発目の弾丸を装填発射する時間が無く、余程の幸運に恵まれなければ捕殺することはできなかった。
 カナカの集落では豚や犬も飼っていた。豚は大切な嫁取り財産であり、犬は家族同様にかわいがって農園の仕事やサゴヤシ澱粉の採取場にも連れて行った。
 パプア族の原住民から彼らが弓や槍で捕殺した野豚を提供してもらったこともあった。
 サゴヤシ澱粉採取のあとの木質部の搾り滓を集積しておいた所に、後日発酵して腐ったあとに茸が出る。我々はサクサク茸と名命してサクサクウドンの汁のだしに入れた。これがしいたけ以上の味が出て大変おいしく、食膳の無聊を慰められた。書き落せないのが、サゴヤシの樹で澱粉を取れない部分や切り出しても澱粉の量が少ないと見た原住民がそのまま捨てて行く。ここにも将兵を喜ばせるものが有った。放置して捨てた後一ヶ月ぐらいに、皮の部分に無数の穴があいていることがある。幼虫が発生しているのである。
 日本のカブト虫の幼虫ぐらいの大きさの幼虫である。長野県人が蜂の子といって珍味この上なしと喜んでいたけれど、それ以上の美味だと絶賛していた。ソフトな甘味、しつこくない脂肪、一回食べたら病み付きになり、止められない程であった。しかし残念ながらその数に限度があった。
 陸の青トカゲ、河のワニ。セピック河にはかなりのワニが生息していると、現地人はいっていた。そのワニ狩りを見せてもらった。我々が小銃で撃ち、手榴弾を撃ち込んで殺してもワニは手に入れる事が出来なかった。ワニは殺されると河底の泥に突きささって浮き上がってこない。腐肉となってから水上に浮かび上がるので、その時はもう食べられない。
 現地人のワニ捕りは、鯨捕りのもり式で槍に網を付けて打ち込むか、陸の上で昼寝の甲ら干しをしている時に、その口に縄を巻き付け、大格闘の末、捕えるのである。彼らは肉は食べないが男の勲章として生捕るのである。お前らが食べないなら私たちがその肉を食べるからサービスしてくれといったら、ボーイが驚いて、「ジャパンソルジャーは良くなんでも食べる」といって笑われた。彼らはワニの皮を珍品として持ち歩いてはいるが、肉は食用にしなかった。肉は外観に似合わず真白で淡白な味ながら大変美味で、病み付きになりそうであった。
 青トカゲも四、五十センチもの大物もいた。性質は温順で危害を受けたことは無く、人間を見ると足早に藪の中に逃げ込むので、捕えるのに時間を要したが、一匹捕える大変に多くの肉がとれたので、蛇とは比較にならなかった。肉はこれも白く十分美味であり、その皮も美しかったので、衛生兵からホー酸をもらってなめし皮にして持ち帰った。彼女にハンドバッグの贈り物としてと夢見た野戦のうたかたの夢でもあった。
 蛇やネズミも大切な食料源であった。ニューギニア戦の兵隊の忘れる事のできない思い出であろう。
 今考えても気味の悪いのはミミズである。降雨のあとの湿地で大量のミミズが捕れた。泥臭いので食べられる代物ではなかったが、病兵は競って口に入れた。しかし大量に食べると小便が止まり、そのために命を失った兵隊もかなりの数を占めた。なるべくミミズは食べないように、分隊の兵隊にはいつも注意していた。
 飛んでいるハエを手づかみにして、ポット口中にほうり込む器用な兵隊もいたが、それを目撃した時は思わず目をそむけずにはいられなかった。
 毒性の強い植物には要注意である。その中に電気草なるものがあった。
 ニューギニアでは紙が無かった。用便後の後始末では軍票を使っていた時もあったが、これには数の限度があって、これが無くなってからはその代用として、草や木の皮を紙の代用に使った。ところが急いでの使用で電気草の葉を使用すると、さあ大変である。手頃の木の高さでその大きさまで全く具合が良いので、最初のうちは多くの将兵がその被害を受けた。尻を拭くやいなや、激痛がピリピリと電流の如く走り飛び上がる。その激痛に股を開いたまま歩けない。体験者でなければ、その痛さは信じられないだろう。それもそのはずで葉の表面には肉眼では見えない程の幾戦幾万の鋭い毒トゲがついているのである。一本、一本この毒トゲを抜きとってやらなければ歩行もままならない。汚い尻を丸出しにして股を開いて、取ってもらう方も苦痛だろうが一本一本抜いてやる方も大変だ。それでも痛いからといって電気草では死ぬ様なことはなかった。
 ニューギニア柿だけは絶対に食べてはならない。その強い毒性は人を死に至らしめるに十分だった。日本の熟柿に似た真紅の実を多くつけている。郷愁にひたり誰もが手を出したくなる。ましてや空腹で苦しんで時にはよほど強固の意志がなければその誘惑から逃れられない。栄養失調で餓死寸前の兵隊をどうして責めることができよう。しかし誘惑に負けて一つを手にした時、また次の手が伸びてまた一つと満腹になるまで、もう理性は失われてしまう。
 一時間くらいすると目がすわってくる。だまり込み口がきけなくなり、よだれを流し全身麻痺状態になり痙攣を起こして絶命する。一つだけと思ってもついまた手が伸びてしまうニューギニア柿だけは、絶対食べてはならない。熟柿の色と、食欲の誘惑には誰でもが大変惑わされたものである。
 現地人はもとより獣も見て通り過ぎ、飛ぶ鳥さえも樹上ではフンも落とさないといわれる禁断の実。こんなことで死んではたまらない。見るな、手を出すなの合い言葉で、毒柿から身を守ることにした。

パプア族の成人の儀式
ある時、ビッグマロロハウスにビッグキャプテン来たるの報で大騒ぎをしていた。
 ボーイの話によると、セピック一帯を支配する大酋長で、日本でいえば県知事級の大物の訪問である。周辺のキャプテンやボスボーイ、スクールボーイが総出で、周辺の警備や集落の整備、犬や豚に至るまで十分手入れをして当日を待っていた。
 さて当日、周辺の集落からはボーイたちが頭髪に極楽鳥の羽を飾り、顔に絵の具のような泥をぬっていとも勇ましく着飾り化粧して集まって来た。ワイフやメリーは美しく手入れした腰蓑を着用に及んで、サクサクのタンニューム作りや豚の丸焼、魚のマンボー焼などそれこそ山海の珍味を用意して、大酋長のご到来を待った。やがて遠くの方がざわめいてきた。物見高いのはどこの国でも女性である。丸坊主の青光りの頭を一層短くすり込んで盛装した女房やメリーたちが背のびをするように待ちかまえる中を、精悍な体軀をした大酋長が護衛のボーイ二十名ほどを引き連れてのご入来である。ボーイたちは槍と弓を空に突き上げ、何か叫んでいる。歓迎の儀式であろう。
 ボスボーイが何事か一生懸命報告している様子である。集落の作物、農園、治安、恐らく日本兵の状況も報告の対象になっているのだろう。長々と説明しているが、単語しか知らない上に独特のトクプレス語では私には理解出来なかった。
 日本兵に農園を荒らされないか、豚は殺されないか、集落のヤシは切り倒されないか、ハウスに日本兵が泊まっていないかと、細かい質問がやりとりされていたことだろう、かなり長時間の話し合いとなった。
 終了したのがお昼過ぎで、早速会食である。ワイフやメリーたちがタンニュームや見事な果実、昨夜から料理しておいた山海の珍味が、集会所の広場いっぱいに並べられる。大酋長はさも満足そうな顔で中央の地面にどっかりと腰を下ろして座って、何事かいいながら手づかみで料理や果実をさも美味しそうに食べている。そのうちに、ボーイが私を迎えに来た。大酋長に紹介してやるという事である。
 私は身にあまる光栄と、差し出される手を強くにぎり返して感謝の意を表した。地面に座り食を共にしたことは、大酋長としての私の終生の栄光であったと表現した。純情な彼らの心に打たれた。私はこの機会にと思い、日本軍人への現地物資の提供を心からお願いした。
 食っては飲み、飲んでは食い、一晩中太鼓をたたきシンシンで踊り明かした。年に一度のお祭りでもあるので、その気持ちはよく分かった。

 今一つ、セピック地方のボーイの、成人式を紹介しよう。彼らの社会は早熟である。男の子も十歳くらいで成人の儀式をしなければならない。大人のボーイの仲間入りをしなければ通用しない。
 マロロハウスに該当のボーイが集合させられ、スクールボーイの教育を一定期間受けなければならない。もちろん合宿であり、親元には帰る事が出来ない掟になっている。家族とも隔離されて交信とて許されない。マロロハウスの儀式を司るスクールボーイに総てお任せである。
 中でもどんな儀式をしているのか、ボスボーイに聞いても、口を閉ざして教えてくれない。絶対約束は守るからといっても、掟だからといってとうとう見せてもらえなかった。
 合宿成人式は一ヵ月くらいの予定で始められる。とにかく凄惨な行事であることは間違いない。時折り悲鳴が聞こえてくる。みんなじーっと我慢して、何かに堪えているようである。ヒイヒイと泣き叫ぶ声も耳にすることがある。スクールボーイもボスボーイも教えてくれないので当たって砕けろと、キャプテンを夜集落に訪ね彼が日頃何よりも欲しがっていたオメガの腕時計をプレゼントとして、ようやく聞き出すことに成功した。
 凄惨なる行事、それは竹ベラで体に傷を付けることから始まり、その傷口にヤシ油の煮沸したものを注ぎ込むのである。外に聞こえたのはその時の苦痛に耐えかねての叫び声であるという。何のためにそんなことをするかと聞くと、ワニの咬傷や引搔き傷に見せるためだそうである。死ぬほどの苦痛に耐えている幼いボーイが、あまりにも不憫に思われてならなかった。竹ベラで傷を付け、たぎる油を注入する。傷口が完治しないうちにまた次の傷口を作るの繰り返しである。この荒修業に耐え、幼い子供が月余の日時を掛けて儀式を完了した時は、黒い肌の背中に見事な黒い油光りするワニの格闘痕が出来上がるのである。
 成人の儀式とはいえ、それはあまりにも凄惨な儀式であった。集落のメリーの人気は高まり、成人としてマロロハウスの大人の仲間入りが出来ることはうなづけるとしても、集落のメリーたちがそれを率直に受け止め、勇者としてのボーイに尊敬の念がいだかしめるとは。彼らのこんな単純な社会であっても、これで幸福と信じ生活して行ける。これはまさに世界のユートピアだとうらやましくなった。
 儀式終了の夜は、ボーイの両親の心づくしの盛大なシンシンが夜通し行われ、老若男女入り乱れて踊り狂う。これによりまた明日からの生活の活力を生み出して行く。ボスボーイもスクールボーイにもこの地球の楽園を、いつまでも残しておいてほしいと心から願って、お祭り広場から集落の駐留地へ帰りを急いだのである。追いかけるように、音律はあっても歌詞の無い「チンチンナニガロー」の繰り返し、ただ大声を出し大地をつよくふみしめるのであった。それで十分満足しているのである。

内地から独立して
いくら歩いても、ウエワクへの道は遠かった。やがて死ぬより外に道はないのかと、不安な毎日が続く。
 落伍しても、追い抜いていく人々に助けを求めることも出来ないのだ。助けを求めても、誰も力になってくれないことを知っていた。暗い孤独の中で死を待つだけである。二十師団に追尾して転進する我が部隊も、段々と隊列が縦長になってきた。駐留兵も日毎に増えて行く、もうどうにでもなれと自暴自棄になってきた。中隊長とて、「無気力の兵隊を統率して行くことは困難になるのではないか」と不安をもらす。
 樹林を抜け出て海岸道に出たところで、海の見える平坦な道路に出ての気のゆるみからか、所々に死体がむなしく横たわっているのを見た。栄養失調からくる死である。ブヨブヨにウドの大木みたいな兵隊がいるかと思うとこれ以上瘦ることができない骸骨のような死体。
 どこから集まって来たのか多数のヤドカリが、肉の無い皮ばかりの死体に食いついて、盛んに口を動かしている。音をたてながら兵隊の死体に必死に餌を求めている。すでに肉を食いつくし、白い骨のむき出しになっている太股あたりに一番多く群がっているのは、下等動物でもどこに多量の餌があるか心得ているからなのだろうか。この無惨な姿、上等兵の襟章が淋しく一個付いていた。
この兵隊も、ニューギニアに引張ってこられなければ死なずにすんだものを。故郷にいた頃は会社の社長だったかも知れない。逆境に弱い人だったのかも知れない。限り無い無情を感じ、カラコロカラコロと音を立て胃袋を満たしているヤドカリに激しい憤りを感じながら、なすすべもなくただウエワクに向かって歩くだけであった。
 ラム河、セピック河の大湿地帯をともかく脱出できたものの、飢餓による栄養失調、歩行困難な負傷兵、マラリア患者、下痢患者など兵隊たちの姿は目も当てられなかった。海岸道で海辺のヤドカリを見ても、前日のことが眼底に浮かんで食う気もしない。軍衣の下の食い荒らされた白い骨が、我々の前途を暗示するかに見えた。

九死に一生
 カウプで部隊本部に命令受領に行くことになり、私は西岡上等兵を伴って、二人で中隊を出発したのが早朝であった。久方振りに中隊を離れて、西岡と二人きりになった開放感もあってか、夕方までは帰隊出来るという安心感もあってか、任務を軽く考えたわけではなかったが気のゆるみもあったのだろう、大失敗をしてしまった。
 大隊副官から命令を受領して、帰路につく前に携行食のタビオカ芋の焼いたもので腹ごしらえしようと、大隊本部の下士官からもらったヤシの新芽で中食をとった。そして帰路につこうとした時、バケツの水をひっくり返したような大スコールに見舞われてしまった。頭の先から爪先までズブ濡れになってしまった。スコールの通り過ぎるまで出発を延期することにして、西岡上等兵と雨やどりしていた。
 意地悪いことになかなか豪雨は小降りにならなかった。三時頃になるとさすがのスコールもおさまり青空が見えてきたので出発帰路につく。ところがさあ大変、先刻の雨で丘の登り斜面がすっかり流され、道路がなくなっているではないか。部隊本部からの道路はウエワクへの将兵の転進路だったので、さして深く意に介することもなく、夕暮れも迫ってきたので方向だけを確認し、目標を定めて歩きだした。しかし歩きはじめてみると、往路と異った風景が目に入ってきた。夕暮れが迫ってきたので、急いだためか来る時には無かったカナカの廃農園に出てしまった。
 「これは大変なことになったぞ、西岡上等兵どうしたもんか」と相談したが、今夜はこの廃農園で一泊して明朝中隊に追い付くのが最良の方法と彼も露営に賛成してくれたので、早速その準備にとりかかる。最初にすることは今晩の食料を探すことである。幸いにして廃ガーデンである。二人分ぐらいの現地物資は無いことは無いだろう。火縄の火を吹き吹き明りを強くして、薪や枯れ草を集めて火を燃やす。
 不幸中の幸いというかガーデンの片隅に、壊れかけたガーデンハウスが見つかった。茅ぶき屋根ながら一夜の雨露をしのぐ事が出来るぞと、中に入ってみると何も無い、相当前に逃げ出したとみえる。
 さて食べ物は無いかと、薪に火をつけてガーデンをさがし始めたが、転進部隊が荒らして行ったのか、なかなか見つけることが出来なかった。
 しかしあった、あった。ガーデンの片隅にトウモロコシの木が十本ばかり取り残されていた。これは最高と近寄ってみると、未熟であって必要な豆が付いていない。皮ばかりの芯のトウモロコシであった。それでも食べる所が無いかと皮をむいて、芯だけでも十数本収穫した。今晩はこれを焼いて何とか空腹をしのごうと薪を投げ込んで火勢を強くする。三十分くらい焼くと、どうやら食べられる程度に焼き上がったのでこげ臭いけれど夕食にする。
 芯まで火が通っていたので、まあまあ我慢して、八本くらい食べた時、天井の腐りかけた茅屋根から、ゴソゴソと音をたてて垂れ下ってきた異様な物体があった。火勢を強くして明るい中で見ると、どうやら蛇らしい。棒切れでたたき落としてみると、六、七十センチの大物である。
 「西岡、天からの恵みの夕食だ。いただかずには済まないことになる」
 早速火中に投入する。蛇は熱いので暴れて逃げようとするけれど、火の中から逃げ出すことは出来ない。火炙りの焼蛇が出来上がる。内地にいる時は蛇ほど気味の悪い動物はいないと思っていたのにニューギニアに来てからは大切な動物性蛋白質として栄養の補給源に、副食として最高の獲物であった。
 疲労回復にはまたとない得難い貴重な品であった。香ばしい匂いが狭いガーデンハウスの中に充満する。焼き上がるのも待ち切れずに、二人は頭の方から食べ始める。
 これで明日の帰路は元気に中隊に到着できると元気に話しながら、一匹を食べ終わった。大きな蛇だったので、骨は大分堅かったが味の方は上々であった。
 香ばしい匂いに誘われてか夫婦蛇かは知らぬがそこへまた一匹するするすると天井の茅屋根から垂れ下ってきた。早速捕えて火中に投入する。蒸し焼きにするには、たいした時間を要することは無かった。
 西岡上等兵が、「班長、あまり多く食べると、食べ過ぎで体をこわすと悪いから止めたらどうですか」と忠告してくれたが、我慢ができず私はさっきよりは小さかったけれど、一匹尾を少し残して食べてしまった。私の胃袋にはまだ少し余裕があったので、一本残っていたトウモロコシの芯まで全部食べてしまった。
 蛇の調理には二種類ある。一つは焼いて飯盒に入れ副食にする方法と、塩辛である。蛇の内臓を取り出し、蛇の肉は二、三センチくらいに切り、これを空缶の中に入れ岩塩を混入して行軍中持ち歩き三、四日で立派な蛇の塩辛が出来上がるのであるが、今では考えてみただけでも気持ちが悪くなる。
 食べるだけ食べ腹も満足したので、たき火に薪を加えて二人とも眠ることにした。火勢も強くなり、暖くなって来たので、疲れも手伝ってか夢の国であった。
 二時間くらい眠ったであろうか、変な夢で目が覚めた。腹にさし込むような激痛が走る。冷汗が出るほど痛い。うん、うん唸っていると側で眠っていた西岡上等兵が目覚め、「班長、どうした。腹が痛いのか」と大変に心配してくれるけれど、これだけはどうすることもできない。
 昼間のスコールで体を冷やしたのがいけなかったのかも知れない、体を温めてみようと、火に近づいてみるが、痛みは少しも治まらない。七転八倒の苦しみである。そのうちに便意を催したので、屋外に飛び出し用便をするけれど、少しの排出もない。腹痛は増すばかりであり、このまま死んでしまうのではないかと思った時、夕食の蛇の事を思い出した。トウモロコシと蛇の食べ合わせが悪かったのだ。しかも精をつけるためにと一匹半も食べたのが悪かったと気付くのに時間はかからなかった。夫婦蛇の怨霊が仇討ちに来たのだ、腹痛はその復讐であると直感した。
 それはともかく、痛みと排便で眠る事が出来ない。西岡とてどうする事もできず、ただオロオロしているばかりである。二人とも一睡もしないうちに、長い夜も白々明け、朝になってしまった。
 モロコシの食べ過ぎと蛇の中毒、のダブルパンチに見舞われ、急性の腸炎を引き起こしてしまったのだろう。薬とてない現在、とにかく腹を温めて休んでいる事にして、西岡一人を中隊に帰し、昨日の命令受領を中隊長へ報告させることにした。
 しかし西岡は私一人をガーデンに残してカウプの中隊に帰るのを不本意として、なかなか出発しなかった。
 「西岡、お前の気持ちは良く分かる。しかし命令は命令だ。佐藤大尉にこの事をつぶさに報告してくれ。私も元気を取りもどしたら、君を追及して中隊に追いつくから、早く出発してくれ」
と、私は頼んだ。
 腹痛の方はどうやら治りかけて来たようだ。さし込みの間隔が長くなって、痛みの方もやわらいできた。
 太陽の位置を見ると、もうお昼頃の時間ではないか。西岡上等兵が中隊に着く頃ではないかとその安否も心配である。排便の回数は増加するばかりであったが、さりとて下痢止めの薬が有るはずも無く、このままでは野垂れ死の外はない。
 下痢止めに炭末を飲む兵隊を思い出し、私も消炭を粉にして服用することにした。幸いに薪を燃した炭が沢山あったので、炭末には事欠かなかった。口の回りを真っ黒にして、水も飲まず炭を食べたと表現した方が当たっているかも知れないほど炭末をつめ込んだ。
 通過部隊もあるのだろうに、このガーデンに立ち寄る将兵はいない。夕方頃になって始めて排便に黒いものが出てきた。どうやら体内に炭末が回ったらしい。炭だけが唯一の治療薬という心細い一日も暮れて夜となった。孤独感は暗夜ともなると一層強くなる。いままでの転進路に、恨みを残して呪い死した将兵、孤独に耐えかねて自決した兵隊、走馬灯の如く次々と脳裏をよぎってゆく。自分もこのまま廃屋で、冥界入りをしなければならないのだろうか。一晩中色々な妄想にとりつかれて一睡も出来ないまま、夜明けの光がぼんやりと入ってきた。
 とにかく、このままでは野垂死以外にない。西岡上等兵が迎えに来てくれるとは思えない。彼とて無事中隊に着けたかどうかも分からないのだ。排便の方は相変らず一時間刻みで出るけれど、トウモロコシと蛇の方はすっかり出て行ってしまったか、出るのは真っ黒い炭末と水だけである。
 立ち上がってみると、体はふらつくが何とか歩けそうだ。昨日から水分の補給をしていないので、脱水症状を起こしてはと、水分の補給だけは忘れない。もちろん炭末も十分用意して背負子につけた。装具も必要品だけにして、出来るだけ軽装にして廃ガーデンを降り、海岸道に出てウエワクの方向を目指し、遅留兵のような歩速で一人転進を始めた。やせ細った兵隊が、三々五々亡者のような姿で西進して行く。重い足どりで死神と同伴の二人三脚だ。
 下痢は止まらないが、腹痛の治ったのが何よりの力づけとなり気力で歩く。排便の量は少く回数もわずかながら少くなってきた。しかしそのつど軍袴を上げ下げするのもわずらわしくなったので、何か良い方法は無いかと考えた末、軍袴を脱ぎ背負子に掛けて、前の方は三角巾を取り出して前掛けの様にして、大事な所だけを隠して前から見えない様にした。後の方は背負子の足があるので大丈夫であった。我れながらうまい事を考えたものだと一人感心しながら、せっせと草むらの中に走り込んでいた。
 無気力な将兵は私の姿に見向きもせず、うつろな目で行進して行くが、追い越して行く部隊の将兵は、奇怪な兵隊もいるものよと、さげすみの視線を投げていったがそれも気にならないほど落ちぶれた我が身が情けなくなった。
 比較的元気な兵隊が追い越して行くので、思い切って指揮官だろう中尉の襟章を付けた将校に、
 「迫撃砲大隊で部隊追及中ですが、一昨日から何も食べていないので、タロ芋でもあったら少しでも頂けませんか」
 と、恥も外聞もなく頼み込んでみた。しばらく私の様子を観察した末に、「当番、この者に少し食料があったら支給してやれ」
 と当番兵に命じた。早速当番兵が乾パン二十個ほどを渡してくれた。この時ほど人の情が身に沁みて、有難く感じたことはなかった。涙が出るほど嬉しかった。大切に保存していた糧秣だろうに、私はこの恩義に報いるためにも頑張って、部隊追及を果たさなければならないと決意した。
 炭末で真っ黒い口中に、恩義で恵まれた乾パンを嚙みしめながら歩速を早めた。ふんどしがわりの三角巾は、非常に重宝だった。ズボンの上げ下げもなく、余計な手間がはぶけて、体力の消耗も少なく済んだ。
 乾パンを食べても、恐れていた腹痛はこなかった。炭末の効果も出て排便も楽になり、回数も少くなってきた。夢遊病者のような日が二日も続いた。その間、上空を通過して行く戦爆連合の敵機の数と回数が多くなっていくのが感じられた。幸いにして転進部隊と転進兵には、銃砲撃が無かった。
 私は体力もついてきたので、ヤシ林に入り、落果のヤシの実を拾ってヤシリンゴやコプラで露命をつなぎ、ひたすらウエワクに向かって部隊追及をする。トウモロコシと夫婦蛇の怨霊にやられたけれど、生来の頑健さと強い意志もさることながらマラリア熱とアメーバー赤痢の合併症が出なかったので、九死に一生を得たと喜んだ。追い越して行った部隊の中隊長からの乾パンの恵みが幸いして、どうやら前を隠していた三角巾のふんどしも取れ、平常な兵隊の外観を呈するに至った事を感謝しながら、マンデー付近で中隊本部に追いついた。
 さすがに疲労困ぱい尾羽打ち枯した姿に、佐藤大尉も涙を流して喜んでくれた。思えば私は広東以来の部下であり、中隊長の信頼のおける分隊長として、随分無理もいい、苦言もいってきたけれど、任務にだけは忠実だったので、いつの進級の時も最右翼の第一選抜で進級させてくれた。
 「西岡上等兵の帰隊報告で、つぶさに状況の判断はできたけれど、部隊副官よりの命令は、速かに大隊本部に追及すべしとの事でありその事は君も知っているので、非情とは思ったが、君を省みる時間が無かった」
 と、説明されて、最後にいわく、
 「蛇の怨霊くらいでは死ぬような男ではないと、当番兵の笠原兵長と話していた。きっと追いついて来る。俺は信じていると語り合っていた」
 とのことに、私は一層の感激を強くした。この温情は忘れることができない。
 マンデーに到着して、何日分かの糧秣を受領して、何日かは体休めの駐留をしたので、私の体力はどうやら回復することができた。
 分隊の西岡上等兵が、何くれとなく私に気配りしてくれて、体力回復に寄与してくれた事も、忘れることのできない転進中の思い出であった。

ウエワク
第十八軍が東部ニューギニア上陸当時の昭和十八年一月、その主力兵団は、北九州出身者の多い師団長青木重誠中将の第二十師団。栃木、茨城、群馬などっ関東出身者の多い阿部平輔中将の第四十一師団を東部ニューギニアに配した。ウエワクはその当時からの後方基地で、軍司令部の拠点だった。ウエワクは一時期は輸送船、海軍艦艇がひしめき、飛行場には数百機の戦爆機がブーツ、ウエワクに常駐して制空権を握り、陸・海・空軍あわせて数万の兵員が待機駐留して、強力なる軍事基地として重要拠点であった。
 しかし今ではラエ、フインシュハーヘンの敗退とグンビ岬の敵上陸、ボカジン渓谷方面に於ける豪軍撃退作戦で兵力を分断させられ、マッカーサーの常に主導的な作戦転開に振り回されて、いつの間にか西走、東走に疲れ果てた部隊の雑居基地となっていた。
 しかし最盛期には歩兵第二十旅団司令部、歩兵第七十九連隊主力、歩兵第八十連隊主力、工兵第二十連隊主力、師団通信隊主力、歩兵第七十八連隊、輜重兵第二十連隊、衛生隊各野戦病院などが駐屯していた。第十八軍は通称呼称名を猛部隊といって、師団の外に中国方面から転進中の第四十一師団と、ニューブリテン島のラバウルにいた第五十一師団の三個師団に、船舶・対空・航空・独立工兵などの軍直轄部隊を含めて十万有余の兵員を擁していた。しかしその面影は今はどこにもない。
 第十八軍安達軍司令官はこの基地を本拠にして、我々の作戦を直接または間接に援護できるようにと飛行場の整備を計った。しかし制空権の奪取の願いも空しく、それは空論に終わり、敵飛行機に完全に制空権を奪われてしまった。我が航空部隊も早朝にブーツよりも遠いホーランジア飛行場に疎開して、夕方に帰って来るという始末であった。
 敵ボーイングB27は連日の如く大挙襲来し、基地施設を爆破、爆砕し、物資集積所を炎上せしめ、碇泊している艦船を撃沈波して、我が物顔に荒らし回っていた。軍司令部を含め各部隊とも山間地のジャングルにひそみ息を殺ろす、という状態にまでウエワクは零落していた。
 我が迫撃砲部隊も、五月初め空襲されたばかりの集落を通り過ぎ、転進の目的地・日本名森山地区に集結を完了した。
 軍命によりマンデー集落周辺で駐留をし、次後の作戦行動の待機部隊として、物資の収集と合せ周辺の警備に任ずることになった。
 待機駐留地としてのマンデーは、松の木岬の付根辺の海岸より五、六キロくらい奥のヤシ林に囲まれた小高い丘に位置していた。凹地を利用して隠蔽壕を作り、敵飛行機に対する兵舎式の待避所の構築作業にとりかかった。長期の駐留が予定されていたので、本格的な対空防空壕を設計して作業分担を定めた。
 まず兵陵の背腹をえぐり取って坑道式の壕を作り、入口をヤシの木で隠蔽したもの。また凹地を利用しタコツボ型の大きな壕を掘り隠蓋はヤシの木を渡し、その上に厚さ五、六センチくらいの土砂を積み上げたトーチカ式の壕である。これはB29の五百キロの爆弾でも直撃を受けない限り大丈夫。機関砲ぐらいでは被害はまず考えられない堅固な陣地も兼ね備えていた。
 各分隊十二、三名は十分に休眠も出来る立派な隠蔽壕になった。無理をすれば兵舎にもなるくらい十分な面積も確保した。兵舎の機能と堅守を兼備した完璧なるものとした。上空をグラマンが飛び回り、兵隊は長期の転進で弱り切っていた。可働人員は常時三、四十名での重労働の築壕作業は並たいていではなかったが、ただ一つ恵まれたのはヤシ林に囲れ現地食も手近かに入手出来たのは大いに助かった。兵隊たちが、自分の命は自分で守らなければならないという現実を、いやというほど見せつけられてきた事も、案外早くそれも完成予定前に出来上がった理由と思われた。
 上空からはグラマンやロッキードが偵察飛行を定期的に実施していたが、部隊の駐留地はまだ発見されていないらしい。いずれ早晩、陣地は発見されると思うが今のところ上空も通過してブーツ方面に飛行して行くようである。
 我々はこの平穏な時機に、休養をとり疾病を根治して健康体に復するようにと、体力の向上に努めた。その努力のかいあって、部隊にも活力がみなぎってきた。我々はつかの間、戦いを忘れて休養専一と、駐留地生活を送っていた。
 非常食料の収集にも精を出した。ヤシ林の中のかぼちゃ探しに、コプラを採取してこれを摺り下しての搾油、ヤシ油の貯蔵、手榴弾での魚捕り、小川が白くなる程の豊漁の時もあった。
 時には大ウナギを仕留めた事もあった。淀んだ淵に一発、手榴弾を打ち込んだ時だった。何の手応えも無く、小魚一匹浮き上がってこない。深いので火薬の偉力が発揮できなかったかなと不思議に思っていると、しばらくして川底よりムクムクと大きな丸太の様なものが浮き上がってきた。すわ何物ぞと近寄ってみると大ウナギである。いやウナギの化物である。長さは一メートルぐらいだけれど胴回りの太いこと、直径二十センチ近い怪物である。
 背負子につけてやっと中隊に持ち帰る。これ一匹で中隊全員に一串ずつのウナギの蒲焼ができるぞと、中隊長を呼んで来て大物を見せると、「夕食が待ち遠しいぞ、美味なるものを作ってくれ」と大機嫌であった。
 それにしても料理が大変である。小さなメスでは切れない。そこで小隊長の軍刀を借りて大切りをし、それからメスで小切りにした。それにしても内臓の脂肪の多いのにはあきれた、一升ぐらいの油がとれたのである。後日の料理に使用することにして、七十串のウナギの蒲焼は見ものであった。しかし味の方は期待が大き過ぎたせいか大味で、思っていたほど美味でなかったが何年振りかの蒲焼に、久し振りにみんなの顔に笑顔が戻って楽しい夕食であった。
 近くには、小さいながらカナカの集落もあり農園もあったので、仲良しのボーイも出来て、バナナ、パパイア、さつま芋やトウモロコシも手に入るようになった。しかしトウモロコシだけは「マスキー」と言って受け取らなかった。とにかく現地物資だけは、ここマンデーでは恵まれていた。
 しかし平和は長く続かなかった。ウエワク、ブーツを爆撃しているらしく、戦爆連合の編隊の数も回数とも日毎に多く我が陣地の上空を飛んで行く。
 それと並行するように、森山地区の上空をグラマン機が丘すれすれに偵察をくり返すようになった。どうやら軍司令部の所在を確認したものと思われる。
 数日後ノースアメリカン機が十余機飛来してきて、五百キロ爆弾を投下した。司令部が爆被され、逃げ遅れた四十一師団参謀長伊藤大佐、稲垣参謀、軍の向井参謀、軍副官千葉少佐など多数の将兵が爆死したとの情報が流れてきた。
 我が陣地も敵側に発見されるのは時間の問題と、警戒を厳重にして歩哨の数も立哨の位置も多くした。敵機の来襲に備えて警報機も取り付け、敵グラマン機に対する防空態勢を整えた。
 しかも私が週番下士に上番中、忘れることが出来ない運命の日がやってきた。
駐留中なので、軍紀は守則に準じて実施されていた。朝と夕方には、分隊の人員点呼が確実に行われていた。週番下士官が人員点呼をとるのである。人員の確保、患者の有無、明日の作業人員の割当て、特に兵隊の健康管理には十分の注意を払い、これが朝夕点呼の主目的でもあった。グラマン機の偵察が頻繁になってから、点呼は壕の中で実施することにしていた。
 当時の中隊の編成は、中隊本部から戦砲二分隊、弾列二分隊の五個分隊であった。指揮班と戦砲隊二個分隊、中隊弾列二個分隊は三つの壕に分散していた。
 当日、少し早めに第一班から点呼を取り、次に弾列分隊の壕に点呼を取りに入ったが、四名しか壕内に居らず、残余の兵隊は物資収集に行ってまだ帰っていないとのことである。仕方なく帰隊するまで点呼をのばして、帰りを待つことにした。
 そして間もなく敵機襲来の警報機が鳴り、哨兵の「ロッキード来襲」のけたたましい叫び声とほとんど同事に五機編隊のロッキードが上空を通過、右に大きく旋回したと思うと爆弾の投下が開始された。耳を圧する金属的な落下音、ものすごい爆発音と爆風。私はとっさに弾列隊の壕から飛び出そうとした。壕内の兵隊が、「分隊長、危いから壕の外に出るな」と必死に止めたが、私は自分の分隊の兵隊が気がかりで弾列隊の壕には居られず、制止も聞かず自分の分隊の壕に飛び込んだ。無我夢中であった。同時にいままでいた弾分列隊の壕は五百キロ爆弾の直撃を受けたのである。
 至近弾ならなんとか被害を少なく食い止める事が出来たかも知れないが、五百キロの直撃弾ではどうすることも出来なかった。
 空を切る摩擦音を至近距離で聞いた時、もし私が壕を移動する恐ろしさに耐えかねて、そのまま豪の中に居たならどうなっていたか。中隊危うしと感知したか弾列分隊が急ぎ帰って来た時には、物資収集作業を休んだ体調の悪い兵隊全員即死とはあまりにも非情であった。
 神仏の加護により、私は九死に一生を得た。全滅の弾列分隊の不幸中の幸いは、ほとんどの兵隊が作業から帰っておらず、被害を最小限にくい止めたということ、中隊としてもこの神助けを感謝しないではいられない。あれだけ堅固な隠蔽壕も、爆弾の威力にはひとたまりもなかった。全身の血液が逆流する思いである。
 運と不運、それは常に戦場について回るとはいうものの、そして紙一重とはよくいったものである。
 一瞬の間に四名の戦友が戦争という地獄により再びこの地球上に戻る事の出来ない地の果てに引きずり込まれて行った。
 月明りを利用して壕の掘り出しを始めてみたが、生存者が一名もいるはずもないことは全壊した状態から誰もが想像できた。しかし救出作業を続行しなければならないのは、あまりにも悲し過ぎた。恐らく壕全体を掘り起こしても、爆風にやられ真っ黒に焦げ、人別も判明出来ないだろう。無惨な姿を人前にさらさなくても、この際一緒に埋葬してやることこそ真の戦友愛ではないか。中隊長の命令で、死体の掘り出し作業は中止され、掘り返した土砂を埋めもどし、壕の入口に「迫撃砲第三中隊弾列分隊第四分隊の墓」と墓標を建ててその冥福を心より祈った。
 双発双胴の空の梯子ロッキードの低空飛行による偵察の正確さは、実に見事なものである。飛行機の高性能なのはもちろんのこと、搭乗者の飛行技術の優秀さに加え、高度に感度良好な各種レーダー。それに較べて日本軍の航空隊は、あまりにもお粗末であった。
 かつて、ラエ上空で約八十機の帝国海軍機が敵前一、二キロで爆弾を海中に捨て、退却していったのを私たちは目撃した。また昭和十八年八月十七日、敵の戦爆連合の払暁攻撃によりウエワクとブーツの飛行場の我が飛行機が地上で炎上したといわれている。その上同年九月十三日、敵襲でこれまた地上において五十余機を大破炎上させてしまった。飛行服を着た搭乗員たちは肩身のせまい思いをしているかと思いきや、ウエワクの糧秣集積所に糧秣受領に大きな顔をして飛行服を着て半長靴をはいてやってくる。彼らに唾を吐きかけたくなったのは、私一人だけでないだろう?
 銀翼に日の丸、ニューギニアではそんな飛行機を一度もその後見たことが無かった。

庄下支隊転属
 ウエワクからセピック河付近にわたる百キロ余の長距離陣地を敷いていた第十八軍は、セピック以西に主陣地を構築していた庄下中将率いる庄下支隊に編入された。庄下支隊はギルギル岬からセピックの周辺を警備区域としていた。
 我が迫撃砲部隊にも、庄下支隊への配属が下命された。部隊副官より第三中隊長に命令があった。「第三中隊より転属要員を編成せよ。その構成は迫撃砲一門編成で一個小隊、小隊長以下二十五名。迫撃砲および弾薬は、ウエワクの兵器廠より舟艇輸送により砲陣地まで搬送する」ということであった。
 中隊長以下中隊幹部は、小隊長として森本見習士官(後で少尉に任官)戦砲隊の分隊長は唐澤軍曹、砲手要員、弾列要員として各小隊より二十三名の転属を決めた。
 庄下支隊転属派遣の氏名発表があり、それぞれ各人に命令された。私もこの中に選ばれた。
 各小隊より選出して、混成の新しい小隊を編成する事は大変なことなのである。いわゆる寄り合い部隊なので、その統率には大変な苦労が待ち受けている。隊長が見習士官ということもあり、その指揮統率には前途に不安を感じさせた。
 兵隊にしても、第三中隊という同じ枠の中にあっても、小隊が異るとき意思の疎通は必ずしも良いとはいえない。しかもどこの小隊でも優秀な兵隊はなかなか転出させないのである。要するに幹部のお気に入りの兵隊は手元に置き、煙たい兵隊は転属要員として隊外に出した。一般の会社であれば転勤させ、自分の身近から遠ざける、軍隊も普通社会も同じことだった。寄り合い部隊の統率の苦労は当然といえば当然の成行きであり、致し方の無い事だった。命ぜられた任務は、事のいかんを問わず拝命せねばならない。ふんどしを締めてかからなければならない。私は中隊長佐藤大尉の名誉のためにも、若い見習士官を盛り立て、立派に任務の遂行を計かるのが自分に与えられた最大の責務と自覚した。
 小隊長の森本見習士官と綿密に連絡打ち合わせをした上、各小隊選抜の転属兵の全員集合を命じた。そして一致団結して迫撃砲部隊の伝統をけがさぬ様協力を依頼した。出発は明朝、各人は身辺の整理をして、集合時間まで休むように命じ、解散させた。
 その夜、当番兵の笠原兵長が、中隊長の私室に来るように呼びに来た。さっそく私が出頭すると、佐藤大尉は、
 「先任下士官の君を転出させる事は心苦しいが、何分小隊長が新参の見習士官であり、砲射撃の実戦の経験も無い。加えて今回は観測班もない不備な編成である。観測班の無い砲射撃はあり得ないと、部隊長にも進言したけれど、配属先の部隊では、今兵器廠には観測器材が無いので、無理は十分承知だけれど、観測器具なしで陣地についてくれ、とのことであり、不本意ながら実行してほしいとのことだった。
 迫撃砲部隊の名誉のためにも、その力を発揮できるのは君をおいて外に適任者が居らんので、君に無理な任務を与えて悪いとは思うけれど引き受けてくれ。酷い転属だけれど、若い見習士官を充分補佐して勤務して来てくれ。心から頼む」
 と諭された。私もそれに対し力強く、自分の意思表示を忘れなかった。
 「迫撃砲第二十一大隊佐藤隊の名を恥しめないよう、森本見習士官の力となり、誓って庄下支隊での任務を全うし、軍直部隊の意地を十分に発揮して、必ずやお目に掛けてみせます」
 と、力強く返答した。
 昭和十五年十二月、私は広東の迫撃砲部隊佐藤隊に補充隊要員として入隊してから、中隊長には人一倍かわいがってもらった。忘れもしない迫撃砲の基礎訓練が終了して、一人前の砲手になった時、広東外出が許可された。広東の一流の料亭大三元で戦友同年兵十名ほどと、ワンテーブルを囲んで酒の一斗飲み祭をやった時のことである。
 一ヵ月分の給料を全部出し合って財布をはたいたけれど、請求額には不足だった。さあ大変なことになってしまった。私たちは勘定のつけのきくような身分でない、支払いをしなければ帰隊に遅れてしまう。内地なら営倉ものである。
 その時、二階の廊下で佐藤中尉の後姿を見たのを思い出した。私はかくれるようにして部屋に帰ったが、皆んなには聞かせなかった。中隊長もきっと一杯飲みに来て居られたと直感したので、中隊長を探す事に意を決して会計の女性に、「佐藤さんの姿を見たけれど、帰隊されずに居ったら会せてほしい」と頼んだら、その会計係りのクーニャンは笑いながら、「佐藤さんはお帰りになりましたよ」との事。これは大変な事になったぞと一同青くなっていると、クーニャンはなおも笑いながら、「初年兵さん心配しなくていいよ。佐藤さんが中隊の馬鹿共が大騒ぎしているが、飲み過ぎて支払いにきっと不足して困る事だろう。その時はこれで支払の足しにしてやってほしいと、軍票で三十円お預かりしていますよ」というではないか。その金で合計を済せてようやく帰隊することができた。
 帰隊してさっそく今日の外出の不始末をお詫びに中隊長の室を訪ねて、
 「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。お借りしたお金は今月の給料を受給したらお返しします」
 と、心から謝罪した。すると隊長は笑いながら
 「人事係には話をするなよ。広東にはキツネが多いからな。今度はだまされるなよ。遊び盛りの若い兵隊に金を返せとはいわん。中隊長は、お前たちをご両親からお預かりしているんだ。責任は俺にある。給料の不足もよく分かる。金は返さなくてもよい。十分食べて元気な兵隊になれよ。班内に帰り早く休め」
 この温情、この時から私は隊長の為ならと心に深く決めた。
 こうした隊長の心にうたれてか、同郷の戦友笠原兵長が五年余の野戦生活中、佐藤中尉の当番兵として一日も休むことなく、女房役の炊事洗濯をしてきたのは、中隊長の人柄に打たれたからの勤務遂行だったのではなかろうか。
 出発離隊の朝が来た。森本見習士官の申告に続き、全員敬礼をして上官・戦友に別れを告げた。出発する者も戦況悪化の中、明日の命の保障は無い。これが今生の別れかも知れぬと、心の中に思わぬ将兵は無かったであろう。
 小高い丘の上に立った佐藤大尉が大声で、「唐澤、死に急ぐなよ!」と叫びながら手を振っていた姿が今でも忘れられない。
 かつてウエワクに向かった時の海岸道を、逆戻りして任地に到着した。小隊長が庄下支隊本部に到着の申告に出向し、支隊参謀から守備陣地及び主任務、砲ならびに弾薬の受領などの明細な指示に受領して帰隊した。
 それによれば、ハンサに上陸した米豪連合軍の西進を阻止し、併せてマリンベルグ、ウエワク間の要衝の地を確保するのが主任務であり、これから後は庄下支隊長の隷下に入り、その命令により行動することになった。
 迫撃砲は、ウエワクの野戦兵器廠から舟艇で弾薬六、七十発とともに受領した。弾体の点検はしたものの、真管装薬包などの防湿はどうか不安であったが、一応形だけは迫撃砲部隊が出来上がった。残された問題は、使用してみないとその真価は分からないが、真管や装薬包が湿気を含んでいないことを願った。
 それにしても砲身や脚や眼鏡の精度はいかなるものか。実戦の射撃に役立つかどうか、全く性能未知数の兵器、観測器具の無い不備の大砲を員数で渡されたものでも、幾久しく部隊の主兵器を持たなかった部隊に、兵器が帰って来たので、何か知ら落着きを得たようであった。しかし果たしてこれで装備・物量ともに勝る米豪軍に、幾ばくかの抵抗ができ得るのだろうか。「牛車に向かうとうろうの斧にも似たり」といったところだろう。
 かくして庄下支隊の隷下に入り、テレプ集落付近の山腹に主陣地を構築することになった。(註 地名は正確な記憶ではない)
 連日の構築陣地作業は重労働であった。最初は寄り合い小隊ということもあり、必ずしも順調というわけにはいかなかったが、幸いにして庄下支隊より糧秣の支給も受け、また周辺にカナカ集落も近く点在し、ガーデンも有ったので現地物資にも恵まれた。人とは環境に左右される動物である。食料が十分あれば、不平もいう者も無く、作業は順調に進行した。
 歩哨、動哨の勤務位置も山頂に設け、敵情の監視、対空には十分配慮して警戒させた。低地の湿地帯にはサゴヤシが群生していた。住民との協同作業に加わり、サクサク澱粉の採集にもつとめ、非常食の確保も忘れなかった。
 陣地の上空を翼に星のマークをつけたノースアメリカンの編隊が、ウエワク方向に向かって日課のように決まった時間に、轟音をたてながら王者の貫禄を誇示しながら飛翔して行く。しかしながら我が小隊は平穏であった。だがいったん海岸道に下りてみると、栄養失調や患者の遅留兵が死の転進を続けているのを見た。方向の定まらない目と足どりではあるが、ウエワクへの気持ちだけを心の支えにして、死の行進が途切れ途切れではあるが流れは止まらない。
 我が小隊は、各隊よりの選り抜きの強兵ではなく、かといって弱兵でもなかったが、主部隊から開放されたという安心感からの気のゆるみか、マラリアや下痢患者が出始めた。守備隊勤務や日常の作業には支障をきたさなかったが、日課を休む兵隊が常時四、五名は絶えなかった。
 砲陣地の周りのジャングルから、手頃の若木を切り出し二棟の兵舎も出来上がった。これも上空には十分注意して建てるよう厳重に注意して作業を行った。
 とにかく以前のニューブリテン島ラバウル以来の平穏な日が続いた。小隊長の森本見習士官も、元の部隊にいた時の上官の重石がとれたのと、一城のあるじとして居心地も良さそうである。隊員の掌握もどうやらでき、三日に一度の部隊本部への命令受領兼現況報告に、張り切って行く日がしばらくの間続いて、陣地は静かに明け暮れていた。
 糧食にも恵まれ、病兵も回復して少しずつ元気を取り戻してきた。そんな時、庄下支隊本部副官から、出頭命令を伝える連絡兵が来た。
命令では、敵歩兵部隊がA高地に進出し、陣地構築を開始したのを庄下支隊の斥候が発見したとの事。重大事とばかり調査斥候を再度出したところによると、その意図は不明であるが、支隊作戦参謀の推測によれば、マンデー付近に敵上陸の計画があり、これに備えてA高地周辺を要点地点としてこの地の確保が必要ということで進出したものと思う。今のところその兵力は百五十名ほどと確認されている。斥候の報告によれば、重火器の装備はしている様子はない。
 貴隊は速やかに、敵A陣地と谷をはさんだB高地に進出し、A地点陣地を牽制すべく陣地構築、砲陣地の移動を行うべし。支隊としても歩兵一個小隊を、迫撃砲隊に協力配備することにする。
 小隊長は、以上の命令の伝達を受け、小隊の陣地移動にとりかかる。一ヵ月ほどいた駐留陣地を取り壊し、五キロくらい移動してB陣地に到着し、隠密裏に砲座を作り射撃準備を整え、命令があれば、いつでも砲撃できるように準備を完了する。
 前述した通り、我々は物資豊富な陣地で休養も十分であったので、病兵の体力も増強しており、山路の砲の辟力搬送にもさして支障はなかった。三、四日で宿営陣地も完成したものの、谷を中に挟んでの敵対陣地で精神的な緊張は高く、監視哨もその責任が重大であった。
地図も無く、地形も不明であったが、相手は谷を挟んで千五百~二千メートルくらいの所に居た。山頂に登って双眼鏡で見ると敵兵の動きが見えるくらいの近距離で、迫撃砲の有効射程距離内である。砲弾薬さえ完全であれば、その威力は十分に発揮することが出来ると自信を強めた。
 我が陣地からの計算は出来ても、制空権はすでに彼らの手にある。高性能の兵器と物量を誇る手強い相手と、戦わねばならない。かつて、フインシュハーヘンのロガイン高地で、一発射ったお陰で千余のお返しがあり、歩兵部隊から射撃中止を求められた苦い思い出がある。我が陣地からの攻撃は出来るのだろうか。出撃命令の出ないことを祈る一日、一日であった。
 大型爆撃機B17四発、コンソリデリデット四発、中型のグラマン双発、双発双胴のロッキードが一斉に襲い掛かって来たなら、我が迫撃砲陣地などひとたまりもなく一山もろとも破砕されるのは火を見るより明らかである。
 戦略、戦術上からいっても、貝の如く蓑虫のように動かないことだ。我が陣地を発見されず、これをいかに秘隠するか。その方が賢明な策ではなかろうかと、小隊長に意見具申する。
 我が方の陣地を知ってか、知らずにいるのか不明であるが、相手から攻撃してくる様子は見受けられない。分からないはずはなかろう、攻撃の必要も無いような飢餓の無限地獄にのた打ち回る骨と皮ばかりの病兵に、戦いを仕掛けてはかわいそうとの憐憫の情を感じているのかも知れない。また取るに足らないと馬鹿にされているのかも知れなかったが、当方はいつ攻撃してくるかとその事で心労が増し、体力は次第に低下していった。
 それでも、戦略的な目的で攻撃に転じてくるかも知れない。察知されないようにと陣地付近の行動に注意し、炊飯の煙りや、夜の火縄の火にも細心の注意をして、退避壕の補強も明方までの夜間作業とした。しかし敵側からは何も仕掛けてこない。我が方も息を殺して待機を続けているうちに、昭和十九年十二月二十四日のクリスマスイブの日がやってきた。
 二千メートルの谷を挟んでの無言の睨み合いを続けていたその日の夕方、「敵陣地の方から何か我が陣地に向けて、スピーカーで話しかけてくる」と、立哨中の歩哨が報告に来た。
恐る恐る山頂近くに行って聞き耳をたてると、たどたどしい日本語で、「日本兵のみなさん」と盛んに呼び掛けてくる。敵陣地から発見されていないようにと願っていったのに、敵はすでに知っていたのである。ただ攻撃をしてこなかっただけである。片言の日本ではあるが、先方の言っている事は判断できた。
「日本兵のみなさん、今晩はクリスマスイブです。アメリカでは仕事を休んでイブを楽しみます。日本の国にもクリスマスはあるでしょう。今晩はお互いに戦争は休みましょう。私たちの陣地でクリスマスパーティーをひらきます。
遊びに来て、一緒に踊りましょう。食べ物も十分用意しています。終わったら安全に送り帰します。約束は守ります」
 というではないか。我々は耳を疑った。小隊長は、「さすがインテリの国だ。勝てる国の余裕か。太刀打ち出来ん、お手揚げだ」とやたらに感心している。「そんな場合ではないですよ。どうしますか」と私はいってみたが、もちろん行けるはずがなかった。しかし招きに応じなかったら、明日怒って攻撃してくるかも知れぬ。小隊長以下、困惑しきっている時にも彼らの呼び掛けは続いている。
 そのうちに東の空より爆音がして、大型の輸送機が双胴のロッキードに護衛されて飛来してくるのが目に入った。敵陣地の上空を旋回するのをかたずを飲んで見ていると、やがて速度を落とし低空飛行に入った。すると突如としてパラシュートで白い物体が落下した。肉眼でもかすかに人である事が判断できた。双眼鏡で視ると、白いスカートを穿いた多分ダンサーだろう、パラシュートで降下してくるその数十四、五名。それに多分上等のワインに七面鳥の肉、その他パーティー用の物品が投下されているらしい。
 分隊長代理のT伍長が、「風の具合でダンサーが谷に落ちてこないかなあ」と冗談をいうと、すかさずD上等兵が、「ダンサーより食い物さ」とやり返した。
 「ヤンキーガールが我が陣地に舞い降りても、栄養不良や下痢やマラリアの我々には、美人のヤンキーガールでも手も足も出ないだろう。股間に手を当てて見よ。役に立つ兵隊がおったら前に出て出して見せろ。庄下少将に具申して支隊長の賞詞の授与の手続きをしてやる。自信のあるやつは一歩前に出ろ。誰もおらんだろう。お前たちの一物は小便排出専門の品物だ」
 かつて香港攻略で白人女性の味を知っている兵隊も二、三名はいるはずだった。しかし現状では欲情は起きても意欲が出ても、体がついて行けない。全くの不能の人間となっているのである。
 返事ができないでいる我が陣地への呼び掛けが無駄と知ると、彼らもそれ以上誘わなかった。夕暗が台上に迫ってくると、恐らく発電機が発電しているのだろう、明るいライトが山上の広場を照らし出し、タンゴやワルツの音楽が夜風に乗って流れて来たがダンスパーティーの様子を見る事ができなかった。
 それにしても、わずか二百名足らずの将兵しか居ない山の陣地に、これだけのクリスマスプレゼントができるアメリカという国の豊かさに今更ながら恐ろしさを感じないわけにはいかなかった。我々の前途に益々大きな不安を感じたのであった。
 ダンサーと将兵の戦場を忘れてイブを楽しむ心のゆとりと、豊富な物資。それにひきかえ突撃ラッパに依存し、肉弾による人海作戦を至上命令とし、それを天皇の命令として何らの疑念の余地もなくこれを実行しなければならない国の将兵とは、あまりにもかけ離れたその差の違いに驚き戦意を喪失して行くのである。
 うかがい知ることのできない強大な国力、勝っている国の軍隊と負けている国の軍隊。テレプの陣地で豊富な現地物資で気力、体力もやや回復したとみていたが、マンデーの陣地での守備に着いてからは、攻撃してこない不気味な毎日と、現地物資の調達も少なくなった。わずかにテレプで採集した乾燥澱粉も食べつくし、重労働の陣地構築、隠蔽壕の建設で、栄養失調者やマラリア、下痢患者の急激な増発で、士気も日増に低下してきた。十時を過ぎた頃であろう、さしも明るい不夜城と化した山の台地も明りが消えた。
 壕の外へ出てその光を見ていた我々も、何か気抜けのした悲哀感から解放された。
 「あのダンサーたちはどうしているだろうなー」
とK上等兵がポツリとつぶやいた。少し間を置いて隣のB兵長が、
 「きまっているじゃあないか。お偉いさんとベッドの中さ。そんなことぐらい想像できないなんで、お前も間抜けだなぁ……」間髪を入れずG上等兵が、
 「我々とは大違いさ。こっちは飯さえ食べられんのになあ。国には美人の女房がおるだろうに……」
 一時、望郷の念にかられたが、内地を出てからの年月の長さを思う。故郷の思い出も、なぜか淋しく空しくよぎるのであった。帰れないだろうと思うと、暗い夜空の下で自然と涙が出るのであった。
 B兵長は、中隊でもあの道にかけては猛者だった。彼の右に出るものはいなかった。広東での外出でも、真っ先に飛び込んだのが「ピー屋」で、連発銃のBと異名をとったほどの強者だった。香港を攻略した時も、その入城式が終了するや否や、早く慰安所が開設されないかと、そればかりいっていた。ニューブリテン島ラバウルでも、昭和十八年九月、最後の病院船「ぶえのすあいれす丸」が入港した。その時、従軍看護婦や慰安婦の外、婦女子を全員内地に帰したと聞いたが、彼はニューギニア転出まで、日曜日外出で彼女たちへの訪問を一回も休んだことがなかったという有名人だった。他の中隊でも、彼の名を知らぬ者はいないということだった。
 そのBが、あれ程刺激されても、何の反応も示さないとは。栄養失調症となると、人間かくもみじめなものか。動物の本能、人としての特権から性欲を奪い取る。奪い取られ去勢された兵隊に、何の戦意が、男としての闘志がわき得よう。男の闘争本能は、絶大なる精力が左右すると聞いている。
 敗走に次ぐ敗走、一年有余も日本人の主食、活力の源泉である米の飯を十分に食べる事も出来ない。草根木皮をかじり。栄養失調で飢餓寸前の兵隊に、士気の向上を望もうとする軍司令官や軍参謀たちが、先頭集団の底辺を支える下級将校や兵隊の心理を完全に掌握し得ていたであろうか、大きな疑問を感ぜずにはいられない。
 側聞するところによると、米兵には戦闘部隊でも一定期間勤務すると、家族サービスの特別休暇の制度があり、家庭に帰り鋭気を養ってまた戦列に参加するのだそうだ。闘志がみなぎるのは当然のことである。
 日本軍はどうであろうか。お国柄の違いとだけで片付けられるものではない。私など赤紙一枚の召集兵でありながら、船舶の輸送の無力さも手伝って、昭和十五年から昭和二十一年まで一度も家庭に帰っていない。幸いにして命があったから帰れたものの、望郷の念にかられながら、戦野に非業の死を遂げたニューギニア十万余の将兵は、無限地獄につき落とされてしまった。対峙する米兵は、クリスマスパーティーで心身ともに楽しみ、「イブ」を心ゆくまで祝い、彼らはまた明日から闘志をかき立てて任務に励むであろう。我が方は意気消沈、戦意を次第に喪失して行くのみである。

アイタベ作戦
 四月二十二日、ホーランジア、アイタベの敵上陸に先立ち、第十八軍は三月二十五日、第八方面軍の隷下から第二方面軍司令官阿南大将の指揮下に入った。
 第八方面軍司令官の居るラバウルは、敵のアドミラルティ諸島およびグンビ岬上陸により中部ニューギニアとの連絡が絶たれたのでセレベス島メナドの第二方面軍の管轄となったのである。その後十九年五月、ビアク島に米豪軍の上陸作戦が強行され同七月一日に葛目大佐以下七百名が玉砕したが第十八軍はすでに五月に第二方面軍司令官阿南大将の隷下を離れ、南方総軍司令官寺内寿一大将に直属する独立軍となることに変っていた。
 南方総軍の命令は、第十八軍はニューギニアに健在して、一般の作戦に寄与すべしというのだった。要するにこれは第十八軍は玉砕をさけニューギニアにおいて、自活生活を営み、その存在自体が間接的に敵の脅威であるように処置すべしということに外ならなかった。
 しかしながら第十八軍は、この時インド兵、ネパール兵などの輸送隊を含め、五万四千の大世帯となっていた。
もう糧秣の米は日本から一粒たりとも届かず、ウエワクの倉庫には四分の一定量(一日一合五勺)で二ヵ月の食料を残すのみであった。しかしそれも計算上のことであって、主計局の計算では過去すでに一年余も食料の給与を受けていなかった。
幅二十キロ、奥行き十五キロのウエワク地区では、一万五千のカナカの農園を食い荒らさない限り、耕作面積、サゴヤシの分布状態、種苗の実情から算定して、自活は不可能という結論に達していた。
自活も無理となれば、第十八軍の行く道はどうなるのか……。軍司令官安達中将はこれまでの作戦で疲れ切った僅かの兵力ではあったが、これを駆ってアイタベの敵を攻撃する決心をした。
しかしウエワク地区とアイタベは直線距離にして百八十余キロ、原住民道があるだけである。私が一九八九年、ウエワクからアイタベまで自動車で早朝ウエワクを出発して、日暮れにようやく帰ることが出来た。河川に水は少なく、道路もかなり整備されていてもこんな状態であった。
 戦史誌によれば、当時第十八軍は十数万の南方随一の大軍団であったが、度重なる大転進で、今や見る影もなき支離滅裂の姿になっていたにもかかわらず、まだ当時軍の総兵力は五万五千と計算していたのである。一方、当時の軍の保有量末は、一日四分の一定量で約二ヵ月弱と主計局では計算されている。「農耕開始というも」……とその不可能を説いている。
 五月末には連合軍がホーランジア以西の日本軍占領地域に対し攻撃を開始したため、西部ニューギニアに対する大転進も不可能となり、軍は重ねて強く道義に生き、皇軍の本領を発揮すべく、唯一の道アイタベ攻撃に邁進するの強烈なる信念を固むるに至ったと。

さて我々は庄下支隊に転属し、マンデーの陣地でクリスマスを祝う米軍に、心身ともに圧倒されていた。しかし米軍陣地からの攻撃も飛行機による爆撃も全く無く、その意図を知る事も出来ず、ただ不安な陣地守備をしていた。
明けて昭和二十年一月七日、庄下支隊より配属の任務を解除され、原隊復帰を命ぜられた。砲弾薬は庄下支隊に返納して、マンデー陣地に限り無い思い出と、四名の犠牲者の遺体を残して陣地を撤去して下山した。
部隊副官から陣地勤務の労をねぎらわれ、「速やかに迫撃第二十一大隊に復帰せよ、貴隊の現在地はボイキン地区に駐留している。今後の健闘を祈る」とのことであった。
何のためにテレプからマンデーまで急行して庄下支隊に転属したのか、数ヵ月の砲陣地では一発の砲弾も撃つことなく、マンデーの陣地では谷を挟んで相対峙して、両軍とも攻撃しなかった。敵は我が陣地の存在を確認していたので、重爆機の強襲をかけたら陣地もろとも全山粉砕出来たはずなのに。帰路残る疑問をどうしても解明出来なかった。
ウエワクに近づくとアイタベ作戦の情報が入ってきた。敵はアイタベ、ホーランジア上陸作戦に対する囮り作戦として、マンデーに陣地を構築するが如くに見せかけ、日本軍の動きを牽制していたのではないかと推測するには、あまりにもその根拠に不自然さが残り、全くキツネにつままれたような転属であった。
ウエワクの森山地区を離れて数ヵ月、その間の猛爆の惨状、日の丸を翼につけた友軍機の残骸、ほうきを逆に立てたように無惨なヤシ林が、あるいは電柱を立てた如く林立している。樹木は折れ、一トン爆弾の弾着により大きな池ができ、雨水があふれている。弾痕に荒れた地形が廃墟の如く道路の跡も分からないほどである。
アイタベ作戦への出動部隊の兵隊だろう、途中から部隊離脱を図り、ウエワクへ引き返して来たという兵隊、いやどう見ても兵隊ではなく、全身垢にまみれ、髭面の骨と皮の栄養失調者、加えてマラリアかアメーバー赤痢の患者か、草むらにかけ込んで行く後姿の力無さ、足どりもたどたどしい。垢を落とせば骨の出るような兵隊、亡者の世界に入りこんだような錯覚をおこしそうだ。
死臭が漂うのか、銀ばえが下痢患者の上を飛び回っている。ああこの兵隊の余命もあと二、三日か。階級章がに目にとまる。陸軍一等兵である。多分赤紙一枚で引張り出され、すっかり人生を狂わされた一人だろうに。道路脇に座り込み、「水を、水を」と懇願している。カウプで見知らぬ部隊の将校から、乾パンを恵んでもらい命が助かった事を思い出し、水筒の水を飲ませてやる。感謝の気持ちを口に出したいがその気力もなく、これが末期の水だろうに。
立ち止まって水を与えている兵隊を、他の兵隊が無表情で振り返って、他人ごとの如く通り過ぎて行く。自分が今を生きる事に精一杯なのだ。今生きていても、明日の生命の保証はなにもない。
突然、「そこの軍曹敬礼せんか」と気合を掛けられた。最近珍しいことだと振り返ってみると、上等兵の階級章をつけ、腰に木の枝を差した兵隊ではないか。マラリアの高熱で頭がおかしくなった気の毒な兵隊。笑えない光景に心重く、敬礼をしてやると、無心に喜び答礼して過ぎ去って行く。
アイタベ方面からウエワクの方に来る将兵は、ウエワクの基地にたどり着けばなんとかなると思って、必死の思いで引き返して来たのだろう。彼らがウエワクに集結して、アイタベ戦に出撃していった頃は、まがりなりにも軍基地としての機能は残っていたのだろう。引き返してみれば、無情にも焼野原と化して基地の面影はどこにもない。
第十八軍司令官安達中将、そしてそれをとりまく高級参謀は、アイタベ戦の正当性を主張しているが、果たしてそうであっただろうか。私自身作戦に参加していないけれど、我が迫撃部隊でも第一中隊東隊が出動、中隊長以下全員戦死、ただ一人の生き残りを数えることだった。
客観的にものを書くことは的を得ていないかも知れないが、無益の戦闘ではなかったか。我々兵隊や下級将校の現地の声では、アイタベ作戦は兵隊を消耗させ、現地自活の目標地点・山南地区における自活諸条件に兵員が多過ぎるので、将兵の間引きを図ることを目的として開戦に踏み切ったと、現地の下級将校や兵隊の間ではささやかれていた。
ひるがえって戦況をみると、完全に大本営から見捨てられた第十八軍である。大本営の作戦参謀に何の義理立てが必要であろう。日本国民から完全に見放された軍団ではないか。二ヵ年余も医薬品の補充、糧秣の支給がなく、現地物資によって生命を維持し、転進に次ぐ転進の連続を重ねるだけではなかったか。
輸送するにも船舶はなく、なけなしの船で積み出しても、制空、制海権を敵に奪われ目的地に着かないのだと、他人事の如くうそぶいている。それぞれの立場でそれぞれの担当者は、自分勝手の理屈をつけて責任逃れをやっているだけで、一向にニューギニアには補給はなかった。
日本から見捨てられた軍隊が、何んで天皇に忠義立てしなければならないのか。名将の誉高い安達軍司令官も「南洋ボケ」したのではないかと、ニューギニア雀が盛んにさえずっていた。万骨を枯らす一将はよいとしても、枯らされる兵隊の方はたまったものではない。
現地指揮者は職業軍人。一銭五厘でかき集めた兵隊の完全掌握はなっていたのか。かくしてアイタベ作戦は完敗のうちに、出さなくても済んだ将兵の犬死を、送る必要のない兵隊を地獄に送り込んでしまった。
戦後、戦史研究者の論議を醸し出しているアイタベ作戦の功罪。論議は論議として、現実に作戦で散華している英霊は、等しく無益な名分なき戦い、泉下の召集将兵士は、この戦いの指導者を呪っているだろう。
さてアイタベ作戦を戦史で見るに、阿南第二方面軍司令官は、五月二十六日の日誌に次の如く書いている。
「安達二十三陸軍中将第十八軍司令官より、アイタベ攻撃を決行させられたしとの具申あり。皇軍の真価を発揮し楠公精神に生き、今日の結果突如何よりも、皇国の歴史に光輝を残すを以って部下への最大の愛なりとの信念を縷々述べあり。将師の心情、正に斯くの如くなるべし。予も武士道を知り皇軍戦道を解す。之を是認して上司にも具申す」
安達はアイタベ攻撃の準備にかかったが、第十八軍主力が分散駐屯していたウエワク地域とアイタベは、直線距離にしても約百八十キロで現地民道があるだけ。ジャングルを行進する部隊の先頭に道路構築班を配置し、この班が道路を急造しながら進むという泥縄式の作戦である。まるで子供の泥んこ遊びのようである。この道路構築班の作業も昼間の就労は厳禁だから、能率はさっぱり上がらず、一日百メートル前後というもどかしさだった。将兵必死の敢闘にもかかわらず、この猛号作戦は予定より一ヵ月の延期に追い込まれ、七月十七日攻撃開始と決定した。
これに先立ち六月二十日、大本営は第十八軍を第二方面軍に直属させた。第十八軍は南方総軍から「東部ニューギニアの要城において持久を策し、全軍、全般の作戦遂行を容易ならしむるよう」という命令を受けた。これは積極的に敵を攻撃する必要はない。現在地域で自存をはかれと解された。阿南が是認したアイタベ攻撃はしなくともよい……との意味が含まれている。安達は、すでに一年有半にわたって辛酸をなめ尽くした部下を思って、苦悩し続けるが、遂にアイタベ攻撃を決意する。
「……人或はいわん、かかる人命を軽視するが如き決心を採択するは、指揮官個人の英雄感を満足せしめて、純真なる将兵を駆って死地に投ずるの非を犯すものではないかと」
当時の状況は、とどまって死に就くか、義を得ず、進んで死に就かんか、義を得てである。死生線上に立って、この死生観に当面した人でなければ、この是非を論ずる資格はない。アイタベ攻撃を意味なき合戦とか自暴自棄的戦とか、名誉褒貶の声があるのを耳にし、特に簡明ならしめた次第である。特に吉原参謀長の記述は、安達中将の死生の美学への陶酔を全面的に容認している。しかも安達がアイタベ攻撃を決意するに至る心境については、正確な記述と思われる。
安達軍司令官の記述も吉原軍参謀長の記述も完璧であり、非の打ち所がない。陸大の試験ならまさに百点の模範解答であろう。しかしそれは机上の空論に過ぎない。ニューギニア作戦の前にまた後に、こんな悲惨な戦闘があっただろうか。戦争だから、弾丸による戦死はもとより覚悟していた。戦いというほどの戦いもなく飢餓と病に恨みを残した三年有余、東部ニューギニアのラエから西部ニューギニアのアイタベまで、長汀千五百キロニ年九ヵ月にも及ぶ山野の東奔西走。その間、こちらから仕掛けた戦いは東のフインシュ作戦、西のアイタベ戦くらいのもので、後は戦場を逃げ回っていただけではなかったか。唯一仕掛けた東西の作戦も、目も当てられない惨敗に終わっていた。戦場とは生きた怪物である。教科書通りにはいかない。
南方軍から「持久」の命令を受けた時の第十八軍の状態について吉原参謀長は、「とどまるも死、進むも死」と言っているが、果たしてそうであったろうか。アイタベ攻撃を中止して現地にとどまれば、全員が生きていられた……といえる条件保障はもちろんない。しかしアイタベ攻撃によって多くの犠牲者を出した後の安達中将は、食料、薬草の研究や現地人に支援を求めるなどの方法で現地自活に大きな効果を上げている。もしアイタベ攻撃を中止し、持久策として、これらの方法を直ちに取り入れていたなら、かなりの人命を救い得たことは想像に難くない。
しかし安達中将は、我に戦力と呼べるものの有る限り、これをすべきではないと戦いを断行した。彼は、「もしそれ当所より持久を主となせば、ついには軍の有する戦力を発揮し得ずして、悔を千載に遺すに至らんことを必定なり」と訓示の中で述べている。
安達中将にとってアイタベ攻撃は、意味なき戦いどころではなく、成功の可能性はないと知りながらも、敢闘精神をもって、皇軍の本領を発揮することにより、全般の作戦に寄与し、かつ日本軍の士気を鼓舞しようという大目的がかかっていた。
多くの部下が死ぬであろう。しかしそれもまた悠久の大義に生る道を全うさせることが、彼らに対する真の愛だと信じた人であった。戦場でも余暇には「軍人勅諭」を書き写していたという安達は、軍人として信念一筋の純粋な人であった。彼は軍司令官の義務、責任をつきつめて行き、そこにアイタベ攻撃の決意が生まれた。それは彼にとって軍人精神の極みであり、光芒を放つ美の世界ではなかったか。安達はその美の虜となってしまったと思われる。

六月中旬、アイタベ開戦に参加する第二十師団と第四十一師団の将兵約一万八千余名は、前進を開始した。
途中には幅五十キロを越す大沼沢地が有る。分解した火砲をはじめ武器、弾薬、食料など総て人力だけで運搬しながら、この大湿原帯を進む将兵の辛苦は言語に絶するものであった。安達中将は人力搬送に命がけの将兵の実状を視察しながら進み、七月一日前線の戦闘司令所に着いた。
この視察で安達は、アイタベ攻撃が普通の軍事常識では無理であることを改めて思い知ったようだ。後方部隊でも、三分の一は戦病兵であり、前線部隊は攻撃資材も食料もあまりに少ない。安達はその夜、なにを思ったろうか。
そして翌朝、日本外史を手に幕僚の前に現れた彼は、「楠公が湊川に出陣された時の気持ちを、模範にしたいと思う」といったという。
「一将功成りて万骨枯れる」古来から将軍を風刺した代表的な名言である。日清・日露の戦勝はまさに人命を軽視し、兵隊を使い捨てにした土台で成り立ったものだった。その代償が勝利であり国民もそれを大きく評価した。しかしその裏面では、数知れぬ一家の大黒柱を失い家族が路頭に迷ったことか。地獄の底につき落とされた万骨は、数知れなかった。戦国時代の関ヶ原の合戦の如き域を脱する事もなく、国力同等の中国と戦い消耗作戦をくり返して来た。それが勝利につながると、かたくなに信じて来た。そして日本軍は、肉弾戦を軍事教練の主要科目として教育して来た。
生命の尊厳は、数億の精子が一個の卵子を求めて争い、その中からただ一個の戦傷者が受胎の権利を獲得するに始まる。それから十ヵ月間温存育成され、出産の栄を得ると人として地上に生まれでることになる。不幸にして母の体内で死産もあり得る。地球上に生命の灯をともすことは並たいていの事ではない。その後の一年程度の養育で立ち上がって一人歩きする。二十年余の歳月を経てようやく徴兵検査が実施され、始めて社会人として大人の世界の仲間入りが出来、成人として認められる。要するに、軍人として使いものになるのが、徴兵検査に合格した優秀な若者である。
地球上の動植物の中で、成熟期間を長く要するのは人類だけであり、これが全地球上を制覇出来た最大要因でなかろうか。成人になるまでに二十年余も掛って得た、貴重な人的資源でないか。これを軽視して、何の神仏の加護があろうか。神風が吹き、天神の神助、始祖の恵みを信じている大馬鹿者の日本国民に、無条件降伏の大鉄槌が打ち下ろされることになる。
心すべきは人命の尊重である。日中戦争では、中国軍も日本軍も親譲りの二本足が頼りで、機動力は共に貧弱であった。昼夜の別無く敵を追い、肉弾戦に持ち込み決着をつける戦法で戦っていた。そして日本は血の代償により、アジアに君臨して軍事大国となった。
 一方米国は、世界に冠たる豊富な資源を持ち、その近代科学の発達進歩は、類を見ないほどであった。真珠湾の奇襲攻撃は間違いなく成功した。しかしその成功は表面的なものであって、真の成功とは言い難いものであった。真珠湾の水深が浅いことは、中央も軍部も承知しており、そのための攻撃方法や訓練を重ねて実施していたことで、沈没艦を短期間に引き揚げることが可能である事も分かっていた。ところが戦果に酔い、これが計算されなかった。第一航空艦隊参謀の源田中佐と第一攻撃隊長淵田美津雄中佐などが、第二次攻撃の必要性を進言し、強くその実行を追ったというが、南雲司令官と草鹿竜之介参謀長の二匹の狂った馬は馬耳東風と進言を避けた。
山本五十六元帥の「出来得れば、ミッドウエー島を攻撃せよ」との支持も全く無視され、中央は南雲中将の報告を鵜呑みにした。アメリカの強大な工業力を軽く見ていたのか、二年後の夏までは回復しないと浅はかにも思っていたのだった。
ところが米国は、近代兵器の開発生産に、現代科学の粋を集中した。その結果、優秀レーダーの開発、注目すべきは重爆撃機ボーイングB29型が、日産三十余機を製作するに至っては、まさに驚異そのものであった。もはや関取力士と子供の相撲みたいなもので、勝負にならない。
ブーゲンビル島の上空で今村均大将が、最前線の将兵を慰労、ガダルカナル島からの生還者の見舞いのために海軍の飛行機でブイン上空に達した時、米軍戦闘機の編隊に襲われて九死に一生を得た。今村大将は山本連合艦隊司令長官に、「貴官も明朝ブインに、海軍「い号」作戦の指揮に出発されるそうだが、くれぐれもお気を付けて」と注意したそうである。
山本長官機が今村大将が米軍戦闘機に襲撃された地点にさしかかった時、またしても米軍戦闘集団が現れた。必死に護衛する零式戦闘機の間隙を敵機はぬって執拗に長官機に襲いかかった。多勢に無勢である、長官搭乗機は黒煙の尾を引き、ブーゲンビル島の密林に墜落した。
今村大将の時のブイン上空での突然の米軍機の出現、今また山本長官の飛来を関知する。これは誰が考えても偶然では無い。情報が漏れている。肝心要めの各司令部から発する暗号が解読されていることに、何の疑問ももたない軍上層部の迂闊さにあったのだ。
日本軍が行う各海戦、上陸作戦に必要な輸送中に、忽然として現れる上空からの戦爆連合の大編隊。それを不思議と思わなかった軍上層部の迂闊さが、日本軍を破局へ破局へと引きずり込んで行った。
日本は将兵の血で総てをおぎない、米国は強大な工業力と近代科学戦でひた押しに押しまくってくる。
安達中将の公式遺書の中に、「力つきて花吹雪の如く散り行く若き将兵」というのがある。軍司令官も高級参謀もニューギニアで戦死した将兵の姿を、こんな目で見ていたのであろうか。食料も医療品もなく、病魔と栄養失調症で恨みを残して餓死した将兵が、何で天皇陛下万歳を叫び、桜吹雪の如く死んで行けるものか。
この安達の作戦遂行上の基本理念がある限り、我々は全くの消耗品にしか過ぎなかったのである。錯覚も極に達したものと、大いなる怒りを感ずる。とはいっても百人に一人、千人に二十名の職業軍人の若い下級将校や下士官の、内のごく限られた人たちの中には、この様に死を美化して散って行った将兵も全くなかったとはいえない。
戦死した英霊や健闘した諸氏を魚に例えて悪いが、我々はニューギニアという大きな鍋の中に入れられたドジョウのようなものであった。軍の指導者に塩をふりかけられ蓋をされ、その蓋を米国兵にしっかりおさえ付けられ、七転八倒の苦痛の末、ドジョウの如き十余万の将兵が、ニューギニアの鍋の中で悶絶していったのである。
中国十年戦争から太平洋戦争へ、好戦的な軍の指導者は戦局を拡大していった。軍の指導者は戦うことによって自分の存在を誇示できる。彼らは軍人を職業としている人たちである。その者たちが一部財閥と結託して、全国民を巻き込んで開戦に至らしめたのである。
彼ら職業軍人は戦争が無ければ階級も月給も上がらず勲章も貰えない。兵隊の食料も無い不毛のニューギニアで、馬に乗り自分の地位を誇示していた大馬鹿将官もいたと聞いている。これこそ愚の最たるものであろう。
赤紙一枚で、すっかり人生の生活設計が変更させられる。青春を謳歌したい人も、真理の原点を求め、真・善・美の追求をしたい向学の青年も、貧農ではあるが社会の支柱として営々努力している。農民も、中・小の自営業に心命を捧げんと誓った人たちも、好むと好まざるとによらず兵士となる。そして本人の意思、個人の自由まで剥奪されて参戦に引きずり込まれて行った多くの補充兵。
ニューギニアに転用された不幸な多くの青年は、米の飯も与えられず、現地物資に依存して生きのびた。内地からの物資輸送も無く、ニューギニアの原住民の生活権を荒らし回り、草根木皮をかじって耐えた。マラリアで高熱を発してもアメバー赤痢で下痢の回数を増していっても、負傷しても何らの医薬品とて無かった。果ては栄養失調で骸骨みたいにやせ、生への執念から、人肉まで食べた末、万哭の涙と呪いを残して餓死していった。なんで桜吹雪の如く美しく死んでいったものか。それは壮烈でも崇高でもない、みじめきわまるものであった。これこそが私のこの目で見た、戦いの実相であり、真実である。下級将校、下士官、兵は、天皇のためや国のために死んだのではない、自分の意思に反し、仕方なしに死に追いやられたのである。
かくて昭和二十年八月三日、一万有余の前途有望な若者の死をのみ記録し、惜敗して事実上のアイタベ作戦は中止された。四日から戦線離脱退却が始まった。傷病兵を担ぎながら東への移動が始まったが、まさに餓死寸前の集団がウエワクに集結を終わるのは、果たしていつの日であろうか。


つづく